蒼紫神社

   

長岡市悠久町707  地図

山本帯刀・渡辺廉吉碑 山本帯刀は長岡藩士・安田家に生まれ、家老山本家の名跡を嗣いだ。
明治元年9月9日会津飯寺で濃霧により判断を誤り、西軍に捕えられたが降伏を拒み、家臣渡辺豹吉らとともに斬首された。

渡辺廉吉は豹吉の弟で苦学の後、外務省書記から行政裁判所評定官となり、貴族院議員に勅選された。
大正14年(1925年)2月14日没。
享年72歳。
戊辰刀隊戦没諸士碑 北越戊辰戦争で戦死した長岡藩刀隊士の追念碑。
戊辰槍隊戦没諸士碑 北越戊辰戦争で戦死した長岡藩槍隊士の追念碑。
病翁碑 長岡藩、小林虎三郎の碑。
病弱であったため、自らを病翁と号した。
文政11年(1828年)小林又兵衛の三男として生まれる。
23歳の時に藩命で江戸に遊学、佐久間象山の門下に入り吉田松陰とともに「象門の二虎」と称せられた。
戊辰戦争では徳川慶喜の赦免を訴える嘆願書を起草するが、江戸より帰藩した河井継之助が嘆願の無意味を主張して取り消させたため、嘆願書は提出されなかった。
明治元年に長岡藩大参事となる。
戦後、四郎丸村にある昌福寺の本堂を借り、仮校舎として国漢学校を開校させた。
その後、支藩の三根山藩から米百俵が寄贈され、藩士らは分配を望んだが「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と唱え、米百俵の売却益を元手に、学校に必要な書籍、器具の購入にあて、明治3年(1870年)6月15日に国漢学校の新校舎が開校した。
明治10年(1877年)8月24日没。
享年50歳。
長屋定平之碑 大垣藩。
陣場方。
明治元年6月18日越後桂沢で戦死。
56歳。

甥の長屋由朗によって明治13年(1880年)5月建立。