青山霊園

   

港区南青山2丁目32-2  地図

二本松藩士戦死者慰霊塔 二本松藩戊辰戦死者の慰霊塔。

1種ロ7号14側
武将戦死者慰霊塔
外島機兵衛墓 会津藩。
文政9年(1826年)6月1日、堀 藤左衛門の次男として生まれ、外島家の養子となった。
勘定奉行や学校奉行助、目付、江戸留守居役を歴任。
文久3年(1862年)京都守護職に就任した松平容保に従って上洛し公用人となる。
鳥羽伏見の戦いでは江戸にあって兵糧などの調達にあたったが、敗北し藩兵の撤収に務めた。
容保に対しては恭順を説き、総督府へ陳情するために江戸に留まるが病に倒れ、明治元年3月7日没。
享年43歳。

2種イ3号1側
大竹喜三郎墓 会津藩。
6石2人扶持。
青龍足軽一番杉田隊。
明治元年5月1日磐城白河で戦死。
46歳。

1種ロ8号53側(吉川家墓地内)
荒井東道墓 会津藩。
12人扶持。
医師。
明治元年8月23日会津柳津向所沢で自刃。
65歳。

墓碑には8月29日とある。

1種ロ21号37側
会津藩2人墓 斎藤甚左衛門・・・大工。明治元年8月23日若松城で戦死。73歳。
斎藤信子・・・甚左衛門の妻。明治元年8月23日会津小田村で死。64歳。

2種イ12号8側
戸枝一郎左衛門墓 会津藩。
100石。
玄武士中隊。
明治元年8月24日若松城で戦死。
63歳。

1種イ16号9側
蘆沢寛治墓 会津藩。
150石。
代官。
明治元年8月23日若松城下甲賀町で傷、9月19日城内で死。
56歳。

1種ロ9号4側
亀井宇吉墓 和歌山藩。
和佐類之助隊兵士。
明治元年5月15日江戸大川端で彰義隊と戦い死す。
23歳。

警察墓地
津川安千代墓 和歌山藩。
明治元年5月15日江戸上野山で傷、6月8日死。

警察墓地
林 軍次墓 福山藩。
軍治とも。
明治元年閏4月3日下総行徳で戦死。

警察墓地
熊本藩2人墓 安野七十郎・・・定詰足軽。寺尾九郎左衛門組。明治2年1月3日上総沖で乗船難破、水死。
村上藤四郎・・・藤次郎とも。明治2年1月3日上総沖で乗船難破、水死。

警察墓地
倉田万助墓 熊本藩。
明治2年1月3日上総沖で乗船難破、水死。

警察墓地
高田平蔵墓 熊本藩。
明治2年1月3日上総沖で乗船難破、水死。

警察墓地
牧野喜平次墓 薩摩藩。
七之丞、吉之丞とも。
大砲第二隊。
明治元年7月25日越後十二潟で戦死。
20歳。

1種ロ12号1側
東郷四郎左衛門碑 薩摩藩。
一番遊撃隊。
伏見、関東、奥州歴戦。
明治元年9月27日若松城下陣中で病死。
17歳。

1種ロ10号34側
設楽範輔墓 幕府軍。
陸軍隊。
明治元年11月2日福島で戦死。

1種イ2号6側
宮島誠一郎墓 米沢藩。
天保9年(1838年)に生まれる。
若くして藩校の助教となり、諸国を遊歴。
白石会議において謝罪降伏路線で説得しようとしたが、世良修蔵暗殺の報により奥羽越列藩同盟が結ばれた。
明治3年(1870年)政府に出仕し、以後左院や修史館、参事院、宮内省などの中堅官僚を歴任した。
明治44年(1911年)3月15日没。
享年74歳。

1種イ4号21側
相馬充胤墓 中村藩12代藩主。
11代藩主相馬益胤の長男。
母は松平頼慎の娘。
正室は柳沢保泰の娘、継室は松平頼升の娘、太田資始の娘。
子は相馬誠胤(次男・13代藩主)、佐竹義理(三男・秋田新田藩主)、相馬順胤(四男)、娘(有馬純文正室)、娘(相馬胤紹正室)。
従五位下、大膳亮。
文政2年(1819年)、益胤の長男として生まれる。
父の隠居により天保6年(1835年)に藩主に就任。
二宮尊徳に領内指導を依頼した。
慶応元年(1865年)隠居し、家督を誠胤に譲る。
明治20年(1887年)2月19日没。
享年68歳。

1種イ7号5側
相馬誠胤墓 中村藩13代藩主。
相馬充胤の次男。
慶応元年(1865年)父の隠居により家督を相続する。
戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北を受けて家老を上洛させる。
その後、奥羽越列藩同盟に参加するが、降伏し謹慎する。
明治2年、中村藩知事になるが、明治4年(1871年)廃藩置県により知事免職となる。
明治12年(1879年)4月14日親族らは精神的な病気を理由に宮内省に誠胤の自宅監禁を願い、翌日許可される。
これに対し、明治16年(1883年)12月10日旧中村藩士錦織剛清は、財産横領をはかる異母弟・相馬順胤らの不当な監禁であるとして、誠胤の開放などを申し入れた。
いわゆる相馬事件である。
明治25年(1892年)2月22日訴訟の泥沼化する中で誠胤は死去した。
享年39歳。

1種イ7号5側
小野権之丞墓 会津藩。
文政元年(1818年)生まれ。
松平容保に従って上洛し、公用人として公武間、諸藩間を奔走し、公武合体に尽力する。
戊辰戦争では抗戦を支持する輪王寺宮を奉じ東下し同盟諸藩に働きかけた。
城が包囲されると仙台城下において会津救援の策にあたるが会津藩降伏となる。
のち榎本艦隊に投じ、五稜郭の箱館病院事務長として高松凌雲と共に敵味方の区別なく負傷者の治療にあたる。
降伏後は古河藩に禁固となったのち赦免。
明治22年(1889年)4月2日没。
享年72歳。

2種イ13号9側
山川 浩墓 会津藩。
旧名大蔵。
弘化2年(1845年)11月6日生まれ。
戊辰戦争では日光口に出陣し、大鳥圭介等と共に戦う。
籠城戦に入り、敵に囲まれた城に入城する際、彼岸獅子を先頭に堂々と入城した逸話を残す。
家老に昇進し、籠城戦の総指揮をとる。
維新後は、明治3年(1870年)斗南藩執政職、翌年権大参事となる。
廃藩置県後、陸軍省に入り、西南戦争では熊本城包囲の薩摩軍を破る軍功をあげる。
明治19年(1886年)には少将に進む
明治31年(1898年)男爵となり、同年2月4日没。
享年52歳。

1種ロ18号5側
秋月悌次郎墓 会津藩。
文政7年(1824年)7月2日丸山胤道の二男として生まれ、丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。
秀才として知られ、天保13年(1842年)に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学ぶ。
藩主・松平容保が京都守護職に任命されると公用方として、薩摩藩士・高崎正風らと八月十八日の政変を起こし、実質的指導者として活躍したが、後に佐幕派の反対を受け、慶応元年(1865年)には左遷され、蝦夷地代官となる。
戊辰戦争では軍事奉行添役として各地に出陣。降伏の際には手代木勝任とともに米沢藩へ赴き、その協力を得て西軍首脳へ降伏を申し出た。
戦後は猪苗代において謹慎し、終身禁固刑となるが、明治5年(1872年)に特赦によって赦免され、同年、新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校(熊本大学の前身)など各地の学校で教師となる。
明治33年(1900年)1月5日没。
享年75歳。

1種ロ12号26側
秋月悌次郎碑