朝日山

   

小千谷市大字浦柄周辺  地図

朝日山古戦場 明治元年5月13日、西軍は濃霧に乗じて東軍が占領していた朝日山への攻撃を開始。
東軍は、長岡藩安田隊、会津藩、桑名藩が山頂に砲台を構えて守備していた。
長州藩参謀代理の時山直八率いる奇兵隊約200名は、地元の農民に道案内をさせ奇襲をかけようとしたが、道を誤って敵の正面に出てしまい、時山は抜刀して山頂に迫ったが、東軍の猛烈な銃撃を浴び戦死した。
動揺した西軍は、時山の遺体を運ぶことさえできず、首だけを携え総退却した。
以後、両軍譲らず持久戦となった。
この方面における東軍の兵力は約5000名、西軍はその倍であり、兵器の差も歴然としていたが、東軍の必死の攻防により、5月13日から19日の間、朝日山、榎峠、妙見方面の戦いは大砲・小銃は昼夜間断なく響き、両軍とも多くの死傷者を出した。
朝日山攻略に難を感じた西軍は作戦を変え長岡城を攻略を目指し、5月19日の長岡城落城により東軍は朝日山より退却した。
新国英之助墓 会津藩。
萱野隊甲士。
明治元年5月13日越後朝日山で戦死。
17歳。

父・源之丞と共に見張りを任されていて、源之丞は敵兵を見つけると、傍らで寝入っていた英之助を起こす間もなく山頂に走り、残された英之助は無念の最期を遂げた。
源之丞の迅速な報告もあり、西軍の奇襲は失敗する。
尾根に残された遺体は、後に浦柄の村民によってその場に埋葬された。
戦後20数年が経ち、明治政府から旧幕府軍兵士への弾圧が解かれると、源之丞は浦柄を再訪し、息子が戦死した場所を探し出し墓を建てた。
33回忌まで弔いに訪れ、その後は管理を村人に託し消息が途絶えたという。
時山直八墓 長州藩。
松太郎とも。
無給通士。
変名萩野鹿助、玉江三平。
吉田松陰門。
江戸で藤森弘安、安井息軒に学び、文久2年(1862年)諸藩周旋掛。
下関攘夷戦、禁門、幕長戦に活躍。
明治元年奇兵隊参謀。
5月13日越後朝日山で戦死。
31歳。
贈正四位。

東軍兵士墓 朝日山で戦死した東軍無名戦士の墓が、それぞれが戦死した場所に建てられている。