大般若塚

   

みなかみ町永井665周辺  地図

三国峠古戦場 明治元年4月、越後小出島郡奉行町野源之助を総大将とする会津藩約130名は西軍の越後進入に備え大般若塚に陣を敷いた。
西軍は4月22日に東山道総督巡察副使豊永貫一郎を司令官として佐野藩、高崎藩、吉井藩の諸藩兵約600名が須川宿到着。
高崎藩の200名は永井の裏山伝いに、佐野藩・吉井藩の180名は法師から、本隊は三国街道を進み大般若塚を目指し三方から進軍。
翌日は雨のため進軍を止め、永井の村民から地形に明るい3人を山稼ぎ姿として偵察させ、会津藩が釘を打った板を道路に埋め、木を切り倒して道を塞ぎ堡塁を築いていることを探知し、夜に村人に取り除かせていた。
4月24日未明、西軍は三方から不意をつき会津藩を砲撃し、会津藩は応戦したものの越後小出島まで退却した。
町野源之助の弟・町野久吉は、兄の制止を振り切り、蒲生家伝来の大身槍を振るって若者4人と共に西軍本隊に切り込み、身に数発の銃弾を浴びながらも奮戦したが戦死した。
吉田善吉墓 吉井藩。
足軽銃隊。
明治元年4月24日越後三国峠で戦死。
27歳。