大督寺

   

鶴岡市家中新町19-20  地図

酒井吉之丞遺髪塔 庄内藩。
天保13年(1843年)12月13日庄内藩家老酒井了明の長男として生まれる。
安政4年(1857年)軍師・秋保政右衛門に長沼流兵学を学ぶ。
文久3年(1863年)庄内藩が江戸市中取締を命ぜられ番頭となる。
戊辰戦争では庄内藩第二大隊・大隊長として、新庄・秋田方面に出陣し西軍から鬼玄蕃と呼ばれ恐れられる。
明治4年(1871年)大泉県参事となる。
政府に仕官し兵部省七等出仕。
明治7年(1874年)政府の密命で清国を偵察し、帰国後『直隷経略論』を刊行し、開拓使の黒田清隆に提出した。
明治9年(1876年)肺病のため死去。
享年34歳。
長沢惟和墓 庄内藩。
天保14年(1843年)12月25日庄内藩中老松平権右衛門の次男として生まれる。
のちに、松平家の宗家と言われる長沢家を再興する。
戊辰戦争では、庄内藩の周旋方として活躍。
明治3年(1870年)8月犬塚盛巍とともに旧藩主酒井忠篤の使者となって鹿児島に赴く。
島津藩知事および西郷大参事と面接して薩摩藩の兵器製造所、紡績所を視察、同藩将来の動向を察知して庄内に帰る。
明治4年(1871年)大泉藩権大属。
明治5年(1872年)4月酒井忠篤に随従してドイツに留学したが翌年8月病のため帰国した。
明治10年(1877年)山形県五等属となり、西村山郡長を経て明治13年(1880年)東田川郡長、明治15年(1882年)西田川郡長に転じて、明治19年(1886年)まで在任した。
明治26年(1893年)4月26日没。
享年51歳。
松平権十郎墓 庄内藩。
天保9年(1838年)庄内藩中老松平権右衛門の長男として生まれる。
安政6年(1859年)に家督を継いで組頭となる。
文久元年(1861年)蝦夷地副奉行となり蝦夷地の警備に当たった。
文久3年(1863年)中老に進み、新徴組御用掛となった。
戊辰戦争では軍事掛として庄内藩を総帥した。
明治2年大泉藩大参事となり、洋学所を開設した。
廃藩置県後、酒田県の参事に任じられ県政の中心として活躍するが、明治6年(1873年)のワッパ騒動が起こり県政が混乱したため、翌年12月三島通庸が酒田県令に任命された。
明治8年(1875年)酒田県が廃止され鶴岡県となり、三島が引き続き県令となり権十郎が参事に任命された。
ワッパ騒動の裁判は明治11年(1878年)11月判決が下され禁獄235日に処せられた。
大正3年(1914年)9月20日没。
享年76歳。
山高瑛三郎墓 幕府軍。
弘化元年(1844年)旗本山高十右衛門の三男として江戸で生まれる。
神田講武所で高島秋帆、勝海舟らに学んだ。
文久2年(1862年)将軍徳川家茂に随従して京都に上り、元治元年(1864年)蛤御門の変が起こると同僚とともに宿直して護衛に当る。
鳥羽伏見の敗戦後江戸に戻り、旧幕府勢力の遊撃隊を指揮したのち庄内に来て酒田で新兵の訓練に当った。
庄内開城後の明治2年兵部省の拘引で広島に収監、翌年3月釈放されて東京に帰る。
その後再び庄内に戻り、当時大泉藩参事を勤めていた松平親懐(権十郎)の義弟となってその分知をうけ、松平信任と姓名を改めた。
明治5年(1872年)松ヶ岡開墾が始まると榊原組に属してこれに参加、のち旧藩主酒井家の家職となる。
明治11年(1878年)11月南村山郡学区取締となって山形に移住、その後、南村山郡および飽海郡等の書記を歴任した。
大正8年(1919年)12月29日没。
松平甚三郎墓 庄内藩。
家老。
戊辰戦争では庄内藩第一大隊・大隊長として新庄・秋田攻めに参加し活躍。
明治2年大泉藩大参事に任じられる。
明治8年(1875年)菅 実秀等と鹿児島で西郷隆盛の薫陶を受ける。
のち菅率いる旧藩主側近家禄派に退けられ、不遇の晩年を過ごす。
大正10年(1921年)死去。
享年77歳。
酒井調良墓 庄内藩。
弘化5年(1848年)2月7日、庄内藩家老酒井了明の次男として生まれる。
元治元年(1864年)11代藩主酒井忠篤の近習となるが、慶応3年祖父・酒井右京の切腹に関連して職を辞す。
戊辰戦争では新庄・秋田方面に出陣した。
明治5年(1872年)松ヶ岡開墾に参加し、その後屋敷内に桑を植えて養蚕業を開始する。
明治11年(1878年)兄の子・酒井了敏が死去したため家督を相続する。
明治12年(1879年)屋敷内の畑で庄内で初めての林檎を栽培し、農芸手腕が認められて山形県勧業世話係に任命される。
明治13年(1880年)製糸会社盛産業を設立し横浜からの生糸輸出を始める。
大正15年(1926年)10月23日没。
享年79歳。