八丁沖古戦場


   

長岡市富島町343  地図

戦死供養塔 明治元年7月24日夜、長岡藩軍は長岡城奪還のために八丁沖渡河作戦に打って出た。
八丁沖は長岡城の北東にかつてあった大湿地帯で、西軍との激戦地となっていた大黒辺りから富島周辺に至る南北約5キロ、東西約3キロにわたって広がっており、西軍の防備は手薄であった。
八丁沖横断作戦を立案した河井継之助は、八丁沖での漁労に従事する下級藩士・鬼頭熊次郎に望みを託した。
熊次郎は魚捕りの仲間と四夜をかけて、沼の深い場所には板橋を渡すなどして、八丁沖の真ん中を北から南へ貫く4キロの攻撃路を構築した。
同日午後10時頃、長岡藩兵約700名は闇夜に紛れ、一列縦隊で八丁沖を渡り始め、翌25日午前3時頃富島へ上陸し宮下の西軍前線基地を襲撃し占領した。
奇襲に成功し、勢いに乗った長岡藩は、四手に分かれて一気に長岡城を目指して進撃し、約2ヶ月ぶりに城を奪還した。