八森城跡

   

由利本荘市矢島町城内字八森3  地図

八森城址 明治元年7月28日、矢島藩砲隊は庄内藩の進撃を迎え撃つべく寿慶寺境内に砲門を据え、寄せくる庄内藩めがけて発砲したので、庄内兵も一時たじろいだ。
ところが庄内藩白井隊の一手は、針ヶ岡から井岡台にあらわれ、激しく横撃を加えてきた。しかもその時、樋上道に分かれた林 茂助隊は、雑木林を抜けると、下の方から銃砲の音が聞こえてきたので、一手を左右に分け、左方の一手は上の山から龍源寺へ向かわせ、寺に火をかけさせたのでたちまち門前の侍屋敷に燃え移り、大混乱となった。
林隊長は右の一手を指揮して寿慶寺の上愛染長根の形勝に出て、井岡台の白井隊と呼応して矢島勢を銃撃した。
そこで矢島勢と、長根から下りてきた林隊との間に大接戦となり、矢島藩にも死傷者が出、林隊長も負傷したので一時、赤沢源弥に指揮を託したという。
庄内兵は町へ押し入り民家に火を放ち、火の海さながらの地獄絵図となった。
この危機に瀕しながらも大手門前に榴弾砲を構えて庄内兵の進撃をひるませていた矢島藩総指揮の松原彦一郎は藩主・生駒親敬に請うて自焼を許され、城に火をかけ落城し、生駒親敬は秋田へ落ち延びた。