院内御廟

   

会津若松市東山町大字石山字墓山甲周辺  地図

堀 半右衛門墓 会津藩。
1000石。
元番頭。
明治元年8月24日(23日とも)会津院内廟所で自刃。
51歳。
会津藩3名墓 杉田やえ・・・兵庫の養母。明治元年8月25日若松城内で傷、9月20日自害。57歳。
杉田薫治・・・兵庫伜。明治元年秋家族に刺殺された。3歳。
杉田みわ・・・兵庫叔母。明治元年秋自刃。55歳。
松平容保墓 会津藩第9代藩主。
天保6年(1836年)美濃高須藩主松平義建の六男として生まれる。
弘化3年(1846年)に叔父である会津藩主松平容敬の養子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継ぐ。
文久2年(1862年)京都守護職として京都の治安維持と公武合体に力を尽くし、孝明天皇の厚い信頼を得る。
鳥羽・伏見の敗戦後その立場は暗転、忠誠を貫いてきた将軍徳川慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、朝廷からも逆賊の汚名を着せられ、会津落城後は妙国寺に謹慎、のち和歌山藩に移された。
明治5年(1872年)に謹慎を解かれ、明治13年(1880年)より日光東照宮宮司に任ぜられた。
明治26年(1893年)12月5日没。
享年58歳。
禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際、宸翰と御製を賜ったが、それらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったという。