石大神社

   

登米市中田町石森字前田19  地図

新井雨窓碑 仙台藩。
養賢堂学頭。
400石。
佐沼亘理家医師戸板俊直の二男で、幼少より神童といわれ、天保5年(1834年)に義父剛斎の死に伴い新井家を継ぎ、仙台藩儒員となり、天保8年(1837年)藩命により昌平黌に入学、慶応2年(1866年)に養賢堂学頭となる。
明治元年4月、会津征討の勅命を受けた藩は「会津征討は見合わすべき」との建白書の奉呈を決し、雨窓と大槻磐渓が書いた「五書の建白書」を朝廷に奉呈するため京都に上った。
戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟の盟約書草案を起草し、奥羽越公儀府の開設に尽力した。
戦後その責任を問われて投獄され、明治2年6月に仙台騒擾で家跡を没収され禁錮に服したが、同年釈放された。
古川に隠居して佐沼に招かれしばらく留まり、書を講じて多くの子弟を教育し、明治5年(1872年)佐沼小学校教員を務め、翌年初代佐沼小学校校長となった。
明治8年(1875年)没。
享年63歳。