西光寺

   

石巻市門脇町2丁目5-7  地図

真田喜平太墓 仙台藩。
350石。
鳥羽伏見開戦後、参政を命じられ800石に加増される。
仙台一藩にて会津征討の勅命により出兵。4月土湯峠にて討会開戦。
この会津藩との戦争は密約があり空砲で撃ち合う予定であったのが、討会論者の真田が現場に現れたため、急遽実弾での撃ち合いとなってしまい、会津藩の不信感を煽る。
閏4月20日、世良修蔵が暗殺されると聞くや、真田は命を待たず帰国。奥羽越列藩同盟が東征総督府への攻守同盟へと変化したことに激怒し、職を辞し自宅に引き篭もってしまう。
6月、白河を奪還しあぐねる藩は真田の復帰を懇願し渋々復帰。
明治10年(1877年)、西南の役が起こると、宮城県旧士族として700名の召募巡査の総長を拝命するも、辞して奉ぜず。
明治20年(1887年)10月16日没。
享年64歳。