覚範寺

   

仙台市青葉区北山1丁目12-7  地図

千葉源左衛門墓 仙台藩。
松本要人家来。
明治元年9月占領官軍から戦犯に指定された松本が逃亡すると、家人に頼まれてその身代わりになることを承諾、同月27日殺されて松本の自殺を装った。
松本は明治5年(1872年)赦免。
遠藤文七郎碑 仙台藩。
栗原郡川口村邑主。
3000石。
文七郎は性格が短慮な上、気性が激しかったと言われ、文久2年(1862年)に上洛すると尊皇攘夷派に共感を覚え、帰国すると藩論を尊皇攘夷でまとめ上げようとする。
ところが、同じく重臣の但木土佐は佐幕派であり、尊皇攘夷に反対して対立する。
文七郎は但木との政争に敗れて閉門の処分を受けた。
戦後は侍詔院下局に勤め、次いで仙台藩権大参事となった。
明治32年(1899年)4月20日没。
享年64歳。
贈従四位。
明治29年(1896年)8月建立。
山田清就墓 仙台藩。
父儀右衛門は影山流居合術の十七世の伝統者。
影山流居合を父に学び遠聞傳となる。
戊辰戦争では、駒ヶ嶺の戦いで殿を務め西軍兵士8人を斬って落とした。
この時の刀法を駒ヶ嶺と称し、影山流居合劇曲之分へ加傳とされ今に伝わっている。
明治33年(1900年)没。
享年65歳。
鈴木直記墓 仙台藩。
700石。
二番座召出。
経史に通じ影山流の剣術をよくし、慶邦に仕えて近侍、御目付となる。
戊辰戦争が始まると、秋田藩と弘前藩が列藩同盟離脱の報を受け、正使として両藩へ行き交渉した。
8月11日の駒ヶ嶺での敗戦を一挙に挽回すべく、20日、東軍は総攻撃戦を展開した。
鈴木直記隊は浜通り口で松山隊と合し、西軍を突いて今泉の陣地の奪回をはかったが、逆に大戦力の西軍に包囲されて苦戦し、引き揚げの貝を吹く間もなく退却したので、松山隊は孤立無援となり苦戦した。
戦後の9月22日に番頭格となる。
明治40年(1907年)没。
享年70歳。
錦戸景訓墓 仙台藩。
200石。
祖は近江の医師錦織で、伊達家始祖朝宗の時医者として仕え真壁郡に住み、代々藩医を継いで着座となり300石となり、政宗の時に「錦戸」の姓を賜り別家を立て分家した。
景訓は藩校養賢堂で学び、戊辰戦争では会津征討戦に小隊長で参戦し、白河でも戦った。
戦後、七北田菅間に隠居し、同郡触頭と士族編舎長に任ぜられた。
郷土の農業を改善して生活向上を志し、技術の改革に尽力し、殊に馬耕の普及、米作の改良と農家の現金収入を図るため養蚕を奨励し、私費を投じて長野県から養蚕技師を招いて養蚕の指導・普及に当たらせ、屋敷内に水車を利用した錦戸製糸工場を創設し養蚕の普及に努め、同村の養蚕業発展の礎を築いた。
また九州から新しい農法の技術者を招き米作の改良を推進し、ぶどう、梨、桃の果樹栽培も勧め七北田の産業振興に尽力した。
明治18年(1885年)に県会議員となり初代の副議長を務め、22年(1889年)に七北田村の収入役、28年(1895年)県農会長を務め、国有鉄道の誘致にも貢献した。
仙台商工会議所議員となり仙台財界の有力者となる。
大正6年(1917年)没。
享年72歳。