甲賀町郭門跡

   

会津若松市栄町4-49周辺  地図

甲賀町郭門跡 明治元年8月23日、家老田中土佐は、近所の藩士宅から畳を運ばせてこれを門前に積み胸壁にしようとしたが、僅か数畳を横に並べたところへ早くも敵弾が飛来してこれを貫き防禦の役に立たなかった。
この郭門に進攻してきた西軍は、中村半次郎・小笠原謙吉の率いる薩摩藩と土佐藩の精兵であった。
これに対し会津藩は蜷川友次郎、田原助左衛門らがまず門を開いて踊り出し、田中土佐、黒河内式部の指揮で幼少組隊長佐瀬精五郎、砲兵隊長井深数馬、遊撃組頭馬場清兵衛が各々手兵を率いて突っ込んでいったが、この場における会津兵は銃を持つ者は極めて稀で、武器とするものは刀槍だけであったから、忽ち敵の狙撃に遭って死傷するものが続出した。
井上丘隅、山内遊翁、牧原一郎、原 新五右衛門、春日郡蔵、高橋伴之助、三宅弥七、柳田自休、多賀谷勝左衛門、丸山弥次右衛門、宇南山良蔵らは味方の屍を踏み越え踏み越え、刀槍をかざして奮戦するが、敵兵は益々加わって凄惨・悲壮の死闘が展開された。
田中土佐は藩医・土屋一庵邸に入り神保内蔵助、土屋一庵と共に自刃した。
戊辰戦争中最大の激戦といわれている。