榎峠

   

長岡市妙見町1753周辺  地図

榎峠古戦場 長岡藩にとって、南方の榎峠は防衛の要衝であったが、明治元年5月2日の小千谷会談が決裂した翌3日に西軍が松代藩と尾張藩の兵を派遣し占領していた。
この時点で、長岡藩はまだ表面上は中立だったため、守備兵を置いていなかった。
5月10日、長岡藩は会津藩、桑名藩、衝鋒隊らと榎峠の奪還に向かう。
三国街道を正面から進んだ長岡藩四小隊と会津藩は、信濃川左岸からの砲撃でなかなか前進できなかったが、長岡藩の別働隊四小隊と桑名藩、衝鋒隊は東に迂回して、金倉山から石坂山へ攻め下った。
衝鋒隊はさらに迂回して、峠の南側の浦柄に進み、西軍の背後を脅かした。
小千谷の西軍本営は、小千谷会談決裂を聞いた北陸道征討軍参謀の山県有朋、仮参謀の時山直八が岩村精一郎に代わって諸藩兵を指揮したが、信濃川が増水していて急には援軍を送れず、翌11日夕刻までには、榎峠から、朝日山までの地域を奪われる結果となった。