中野竹子殉節之地

   

会津若松市神指町東城戸216周辺  地図

中野竹子殉節之地 明治元年8月23日、西軍は早くも若松の城下に殺到、合図の早鐘が打ち鳴らされた。
中野家の婦女子らはかねてからの決意通り、髪を切り落とし、義経袴をはき、白鉢巻に白襷で身なりを引き締め薙刀を携え若松城へと駆けつけたが、城門は既に固く閉ざされていて中へは入れなかった。
こうして入城できなかった婦女子らは他にもあり、薙刀の稽古仲間である依田マキや、妹菊子、岡村コマらと川原町口の郭門外で落ち合った。
彼女らは、照姫が坂下に立ち退かれたとの情報を得て、その護衛の任にあたろうとして坂下に向かったが、それが誤報であったことがわかり、今度は若松に向かおうとしていた衝鋒隊と共に若松に引き返した。
8月25日、衝鋒隊に長岡の援兵を加えた400ばかりの一隊は、坂下より高久を経て柳橋へと進んだところで長州藩、大垣藩の兵と遭遇。
かくして婦女子一同も薙刀を振るって奮戦しているうちに竹子の額に敵弾が命中。
竹子は妹の優子を呼び介錯を頼み、無事介錯し高久へと退却した。