追分会館

   

江差町字中歌町193-3  地図

開陽丸終焉之地碑 東軍は松前城を奪取し、江差へ進軍を開始した。開陽丸はその援護のため明治元年11月11日に箱館を出港し、11月14日に江差沖に到着。陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前藩はすでに撤退しており、榎本武揚は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。
ところが翌15日夜、天候が急変し、開陽丸はダバ風と呼ばれる地元特有の風浪に押されて座礁。江差沖の改定は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことも災いした。回天丸と神速丸が救助に向かったが、神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ動きが取れなくなる。
留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。
数日後、榎本武揚や土方歳三らが見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。
主力戦艦の開陽丸の喪失により西軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局に大きく影響を及ぼすことになる。