榎峠

   

関川村大字大内渕598周辺  地図

南無阿弥陀仏戊辰戦死塔 明治元年8月10日、米沢藩は米沢口の劣勢挽回のため藩兵を増強した。
柄目木陣地23隊、八ツ口陣地13隊、金丸陣地8隊、榎峠陣地は武藤秀松隊といった陣容であった。
8月12日早朝より、西軍は新発田藩兵を先頭に三道より榎峠陣地に迫った。
守備隊は力戦むなしく、多数の死傷者を出し大里峠に後退した。
片貝陣地も破られ守将の斎藤新右衛門は活路を開いて沼まで後退したところで西軍に包囲され戦死した。
この戦闘で米沢藩兵は戦死12人、負傷11人、行方不明8人、西軍は新発田藩農民兵の戦死1人であった。
供養塔は、米沢藩戦死者を供養するため、明治元年に蛇喰村弘長寺住職の良成和尚と集落の人々により建てられた。

米沢藩戦死者