興禅寺

   

港区白金6丁目14-6  地図

青柳篤四郎墓 米沢藩。
徳四郎とも。
与板組。
明治元年7月25日越後押切で戦死。
42歳。
神保修理墓 会津藩。
家老神保内蔵助の長男。
京都で国事に奔走、志士と交わる。
明治元年初め江戸で恭順を主張。
藩論統一のため松平容保に切腹を命じられ、2月13日三田の下屋敷で従容と切腹。
34歳。
黒河内式部墓 会津藩。
400石。
軍事奉行。
表用人。
明治元年8月23日若松六日町郭内で戦死。
52歳。
山本季太郎墓 会津藩。
敢死隊差図役。
明治元年8月23日戸ノ口原で戦死。
28歳。
萱野権兵衛墓 会津藩。
家老。
1500石。
文武両道に優れる。
剣は一刀流溝口派の達人。
戊辰戦争後、新政府より藩主父子を助命するかわりに戦争の首謀者3名を差し出すよう要求された。
西郷頼母は行方不明、田中土佐、神保内蔵助は既に自刃していたため4番目の席次にあった萱野が藩の責任を一身に背負って自刃した。
明治2年5月18日飯野藩保科邸内において自刃。
40歳。
そのとき奥義の絶えるのを恐れ、傍らの竹の箸で井深宅右衛門に伝えた話は有名。
郡 長正墓 会津藩。
萱野権兵衛の次男。
父が藩を代表して戊辰戦争の責任を取り切腹して果てたため、先祖の姓の郡と改めた。
会津藩は明治2年陸奥斗南に3万石として再興なり、藩学再建のため翌年藩より選ばれ、同輩7人とともに豊前豊津藩校の育徳館に留学中、食事のことについて書いた母への手紙が生徒間の問題となり、明治4年(1871年)5月1日、藩の名誉のため切腹して果てた。
享年16歳。