染井霊園

   

豊島区駒込5丁目5-1  地図

三橋文内墓 会津藩。
10石3人扶持。
青龍足軽三番唐木隊小隊頭。
明治元年9月1日会津大内峠で戦死。

2種ハ8号3側
高嶺秀夫墓 会津藩。
安政元年(1854年)若松城下に生まれ、日新館にわずか11歳で入学し神童の名が高かった。
明治元年に15歳で藩主・松平容保の近習役に抜擢され、降伏開城まで籠城戦をくぐり抜けた。
明治8年(1875年)にアメリカに留学して師範教育を研究し、帰国後は師範教育にあたる。
とくに明治30年(1897年)女子高等師範学校長に就任し、情操・技芸・体位向上を通じて女子教育の発展につとめたこと、フェノロサと親交を結んで浮世絵蒐集・研究につとめ、東京美術学校長を兼ねて我が国の美術教育に新方面を開拓したことなどがその主な功績にあげられている。
明治43年(1910年)2月22日没。
享年57歳。

1種イ3号7側
山脇十左衛門墓 桑名藩。
家老。
勘定頭・目付を経て在京公用方、外交掛斡旋方。
戊辰戦争では軍事奉行となり北越戦争を戦い、河井継之助・佐川官兵衛と並んで北越戦争三傑と呼ばれた。
戊辰後は、自らの抗戦責任と藩士処分の軽減を嘆願する。
明治3年(1870年)には桑名藩大参事となる。
明治11年(1878年)8月26日没。

1種イ4号19側15番
山脇隼太郎墓 桑名藩。
十左衛門の子に生まれ、藩主・松平定敬の小姓となる。
戊辰戦争の際は父・十左衛門と共に柏崎に行き、同藩士・高木貞作と共に恭順派の家老・吉村権左衛門を暗殺した後、定敬を追って蝦夷地へ渡る。
箱館では、高木らと共に土方歳三配下の新選組に入隊し、箱館戦争に参戦する。
明治2年5月15日、弁天台場にて西軍に降伏。
翌年放免され渡米。
帰国後は明治30年(1897年)まで三菱長崎造船所の初代所長を勤める。
明治38年(1905年)5月6日没。
享年57歳。

1種イ4号19側15番
松平定敬墓 桑名藩主。
文化3年(1847年)12月2日に美濃高須藩主・松平義建の八男として生まれる。
安政6年(1859年)に婿養子として迎えられ桑名藩主となる。
元治元年(1864年)4月、京都所司代に任命され、実兄の会津藩主・松平容保とともに京都の治安維持にあたる。
戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いののち、大坂を逃れて江戸城に入り、主戦論を唱え東北を経て箱館の五稜郭に入り西軍に抵抗したため、翌年津藩に永預となり、明治5年(1872年)に赦免される。
明治10年(1877年)に起こった西南戦争には、旧桑名藩士を率いて遠征した。
明治27年(1894年)に日光東照宮の宮司に就任し、明治29年(1896年)まで務めた。
明治41年(1908年)7月21日没。
享年61歳。

1種イ4号2側