府中市多磨町4丁目628 地図
鈴木五郎墓 | 会津藩。 年割。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月15日会津一ノ堰で傷、11月雨屋で死。 16歳。 18区2種86側 |
水戸藩2名墓 | 樫原鉄三・・・留三郎長男。10石4人扶持、馬廻。明治元年閏4月6日江戸小石川邸で殺害。 樫原留三郎・・・125石、小姓頭取。明治元年閏4月6日江戸小石川邸で殺害。 1区1種2側 |
俣野景明墓 | 庄内藩。 江戸で新徴組を率いて尊皇攘夷運動の取り締まりにあたり、慶応3年(1867年)12月の江戸薩摩藩邸焼き討ちの参謀を務める。 戊辰戦争では亀ヶ崎家中隊長として13個小隊を率いて刈和野・境攻めに勇戦する。。 明治9年(1876年)上京して福沢諭吉の門下生に入り、慶応義塾内に起居して門弟に漢詩を教えていた。 明治10年(1877年)西南戦争では新撰旅団の将校として従軍し、田原坂で抜刀隊として活躍する。 明治15年(1882年)宮城集治監第二典獄として、赴任。 明治16年(1883年)8月現職のまま病没。 享年46歳。 5区1種16側8番 |
荒井郁之助墓 | 幕府軍。 天保7年(1836年)4月29日江戸にて幕府御家人荒井清兵衛の長男として生まれる。 慶応元年(1865年)歩兵差図役頭取となり、大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受け、慶応3年(1867年)5月には歩兵頭並に昇進した。 明治元年1月に軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍総裁榎本武揚らと共に江戸を脱出し箱館戦争に参戦する。 箱館政権下では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦に奮闘する。 降伏後は死刑を免れて開拓使の役人として出仕し、明治9年(1876年)6月に辞任して開拓使仮学校・女学校校長を勤める。 明治42年(1909年)7月19日没。 享年74歳。 11区1種14側 |
本多庸一墓 | 弘前藩。 明治元年閏4月奥羽列藩同盟に参加するために白石城に派遣される。 7月11日に京都で留守居役を勤めていた西館平馬が近衛家から勤王派に転ずるようにとの命令書を持って帰国したことにより、藩論が一変して弘前藩は西軍側につくが、本多らは、弘前藩の裏切りは列藩同盟に対する信義にもとるとして抗議したが箱館への転属を命じられたが、本多らは庄内藩からの使者と共に脱藩して、庄内へ行き背信を詫びて切腹しようとしたが、庄内藩士に説得され思いとどまり、9月中旬に弘前藩兵の捕虜で部隊を編成して庄内藩軍に加わり秋田へ従軍する。 明治5年(1873年)帰郷し東奥義塾の塾長を勤め、そのかたわら明治9年(1876年)東北最古のプロテスタント教会である弘前教会を設立。青山学院院長、日本メソジスト教会初代監督などを歴任した。 明治45年(1912年)3月26日没。 享年63歳。 4区1種35側1番 |
内田万次郎墓 | 幕府軍。 衝鉾隊の指図役頭取を務めていた父と共に15歳で総務付き少年として衝鉾隊士となる。 簗田戦争に従軍し、箱館まで転戦。 戦後、大蔵省印刷局にて印刷局技師として部長を務めた。 大正14年(1925年)2月19日没。 享年71歳。 3区1種1側16番 |
内田万次郎碑 | |