峠下

   

七飯町字峠下600周辺  地図

戊辰役勃発之地 五稜郭を発った松前藩、弘前藩、箱館府の300人余の兵は明治元年10月23日未明に峠下で宿営していた人見勝太郎の部隊を攻撃。
弘前藩兵は、北側の山中から銃撃し集落内に突入したが、人見隊は巧みに移動しながら側面攻撃した。
そこに大鳥圭介軍先遣隊も到着し、銃撃戦は夜を徹して続いたが、西軍は敗走した。
金 寅太郎墓 弘前藩。
城下上尾町住。
奥瀬栄太郎(笹沼六郎とも)隊銃士。
明治元年10月23日(22日とも)大野峠村で戦死。
27歳。
本間長之助墓 弘前藩。
夫卒。
津軽郡植野村の人。
石郷岡廉之助組下。
明治元年10月23日峠下で戦死。
22歳。
古川膳左衛門墓 福山藩。
鷹撃隊。
明治元年10月24日七重峠下で戦死。
45歳。
阿部吉郎二墓 箱館在住隊。
吉郎治とも。
明治元年10月23日七重村で戦死。
宮野国吉墓 箱館在住隊。
明治元年10月23日七重村で戦死。
平山金十郎墓 幕府軍。
天保10年(1839年)武蔵国小梅村の魚問屋に生まれ会津若松の親戚・清水当右衛門のもとで育つ。
文久2年(1862年)峠下村の平山鋭次郎の娘テツの婿となり平山姓となり、峠下に入植した八王子千人同心の子弟を教育する私塾を開いていた。
大政奉還後、蝦夷地は箱館府が治めることとなり、清水谷公考が府知事として政務を執っていた。
これに対し平山は五稜郭を襲撃し、清水谷知事を捕虜にする計画を立てたが、内通により露見し逃亡する。
その後は、幕府軍に加わり戦うが、敗戦後に蝦夷地を脱出し、仙台・静岡を転々とする。
明治7年(1874年)に七重に戻り、峠下に寺子屋を開く。
明治34年(1901年)9月1日没。
享年63歳。