善龍寺

   

会津若松市北青木13-33  地図

池上貞之助墓 会津藩。
別撰組佐川隊。
明治元年1月5日淀で戦死。
21歳。
会津藩2名墓 中村謙二・・・謙治とも。帯刀弟。大砲林隊。明治元年1月5日淀で戦死。34歳。
中村帯刀・・・400石。白虎士中一番隊小隊頭。明治元年9月14日若松城で戦死。39歳。
大熊内蔵墓 会津藩。
善蔵とも。
作武弥弟。
朱雀士中一番小森隊。
明治元年5月1日磐城白河熊倉口で戦死。
37歳。
会津藩2名墓 辰野源之進・・・朱雀士中一番小森隊。明治元年5月1日磐城白河小丸山で戦死。25歳。
辰野平太・・・萱野右兵衛隊。明治元年5月13日越後朝日山で戦死。35歳。
外島錫次郎墓 会津藩。
権兵衛次男。
朱雀士中四番町野隊。
明治元年8月11日越後石間口小松関門で戦死。
18歳。
二十一人墓 集団自決した西郷家9人、小森家5人、町田家3人、浅井家2人、西郷家2人の合せて21人の合葬墓。
明治元年8月23日、西軍の郭内侵入を目前にして全員白装束に身支度をし、辞世を詠み水盃を酌み交わした。
彼女らは国難に際し、戦いの足手まといになること不本意としたのである。

自刃二十一人
会津藩2名遥拝碑 石山虎之助・・・井深数馬伜。白虎士中二番日向隊。明治元年8月23日会津飯盛山で戦死。16歳。
井深数馬・・・200石。軍事方添役。明治元年8月23日若松甲賀町口で戦死。46歳。
宮下清之丞墓 会津藩。
大賄役。
明治元年8月23日若松で戦死。
81歳。
両角大蔵墓 会津藩。
大三とも。
10石3人扶持。
使番。
正奇隊小隊頭。
明治元年8月24日会津小田で戦死。
33歳。
井口信太郎墓 会津藩。
朱雀士中二番田中隊。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。
18歳。
会津藩3名墓 小日山善次郎・・・5石5斗2人扶持。独礼。進撃小室隊。明治元年8月29日若松長命寺で戦死。25歳。
小日山友四郎・・・友次郎とも。6石2人扶持。朱雀足軽四番横山隊。明治元年9月3日会津関山で戦死。18歳。
小日山覚次郎・・・戊辰役戦死。
小室金吾左衛門墓 会津藩。
200石。
番頭席(若年寄席とも)。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。
42歳。
井上恒之助墓 会津藩。
誠志隊半隊頭。
明治元年9月15日会津一ノ堰で傷、面川(井出中野村とも)で死。
42歳。
下平庸三郎墓 会津藩。
幌役。
明治元年9月15日会津一ノ堰で戦死。
44歳。
辰野小十郎墓 会津藩。
朱雀寄合一番武井隊。
明治元年9月13日若松城三ノ丸で傷、21日死。
34歳
奈與竹之碑 戊辰戦争に殉じた名前の判明している会津藩233名の婦女子の偉業を留め昭和3年(1928年)に建立された。
伴 百悦墓 会津藩。
萱野右兵衛隊の組頭として越後口を転戦。
戦後、放置されていた会津藩士の遺体の埋葬に奔走。
明治2年7月12日、民生局の扱いに不満を抱いた百悦は、同志の高津仲三郎らと謀り民生局監察方兼断獄の福井藩士久保村文四郎が帰国する機会に越後街道の束松峠に待ち伏せてこれを斬殺した。
百悦はそのまま旧会津藩領飛地であった新津に逃れていたが、明治3年(1870年)6月22日新津郊外大安寺村の慶雲庵で村松藩兵に包囲され自害した。
享年42歳。
西郷頼母夫妻墓 西郷頼母・・・会津藩。幼少から学問を好み、側役小姓頭、番頭を経て33歳のとき家督相続して家老就任。
藩主松平容保が京都守護職拝命のとき、就任辞退を諌言して解職。
戊辰戦争が急を告げると家老に復帰、白河口の戦いを指揮、敗れて帰城し再度恭順を唱えのち箱館へ移る。
維新後は宮司など神職生活を送り、のち若松に帰る。
明治36年(1903年)4月28日没。
享年74歳。

西郷千重子・・・頼母の妻。明治元年8月23日自邸で一族と自害。34歳。
赤羽四郎墓 会津藩。
会津戦争時、白虎隊に所属して籠城戦を戦っているが、16歳未満ということで開戦時の編成には入れず、籠城戦に入ってから若松城内で再編成された白虎士中合同隊に所属していたと思われる。
開城後、謹慎地の猪苗代から山川健次郎・柴 四郎・高木盛之輔・原 マ三郎らとともに脱走し、若松の西軍本営に赴いて主君の助命嘆願をした、というエピソードを持つ。
明治5年(1872年)アメリカに留学し、帰国後、外務権少録書記生としてドイツへ再渡航し、その後はロシア、アメリカへ転勤した。
明治25年(1892年)に外務大臣秘書官、ドイツ公使館一等書記官となり、明治27年(1894年)には弁理公使に任じられてオランダへ赴任している。
さらに明治32年(1899年)特命全権公使に昇進し外務省参与官を兼ね、明治33年(1900年)からスペイン公使を務めた。
明治43年(1910年)12月28日没。
享年55歳。
高木盛之輔墓 会津藩。
戊辰戦争では護衛隊として藩主の側近を務め、滝沢本陣と戸ノ口原の斥候伝令として活躍。
西南の役に征討軍別働第二旅団参謀中佐・山川 浩隊に属して、熊本城包囲解放戦等に従軍。
のち司法官に転じ、根室、甲府、山形等の地方裁判所検事正を歴任した。
大正8年(1919年)2月19日没。
享年66歳。