与板城跡


   

長岡市与板町与板甲339-1  地図

与板城跡

明治元年5月19日の長岡城落城後、東軍は与板城を攻撃する為に地蔵堂・大河津経由で与板へ兵を進めた。
5月27日、与板手前の金ヶ崎で両軍が衝突。
西軍は一斉射撃を掛けるが会津藩兵の応戦に遭い退却した。
5月28日早朝には援軍が到着し、軍議が開かれ、金ヶ崎へは長州藩・須坂藩兵を配置、塩之入峠口には薩摩藩・長州藩・飯山藩・富山藩・与板藩兵を配置した。
東軍の3倍の兵力である。
西軍は塩之入方面では一斉射撃により善戦するが、金ヶ崎では戦況は不利となった。
塩之入方面が突出すれば退路を断たれる為、西軍は至急退却を始めた。
しかし東軍の勢いは強く、驚いた西軍は与板城に火を付け、大手門・切手門以外が焼失した。
この為城下は混乱に陥り、800人の浮浪隊が乱入して「与板の陣屋を我々に貸すか、それとも10000両を出すか」と迫り、無理矢理7000両の藩金を強奪する等の暴挙が藩内で起こっている。
その後も6月まで与板周辺で攻防戦が続いたが、東軍から与板城下を守り抜いた。

戊辰役与板之恩人碑 戊辰戦後、与板の復興に尽くした旧家老・松下源左衛門定永の碑。