赤谷

   

新発田市上赤谷5742周辺  地図

會藩戦死碑 戊辰戦争当時の赤谷は会津藩領であり、境川を挟み新発田藩と相対していた。
明治元年8月14日早朝、西軍(新発田藩、金沢藩、長州藩、広島藩、薩摩藩)1600名、砲10門に対して、迎える会津藩は160名、農兵60名の遭遇戦が行われ、烈しい雷雨の中戦いが行われた。
遊撃隊長三宅小左衛門は壮絶な戦死を遂げ、力士隊長赤埴平八も戦死、白兵戦で平八の刀はのこぎりのようであったという。
他にも小池滝江も戦死するなど死傷者が続出し、諏訪峠を越え津川へと落ち延びさらに会津へと退却した。
赤谷地区住民は会津藩代官の命により老若男女避難したが、屈強の男子や重立衆は会津藩に組して一部は農兵、力卒となり、物資の運搬、伝令、死傷者の後送など懸命に使役活動に従事した。
戦後、住民はこぞって戦後処理に従事し、この地に散った会津藩士の霊を弔うべく明治17年(1884年)7月にこの碑を建立した。

会津藩戦死者