安国寺

   

鶴岡市新海町22-5  地図

石原倉右衛門墓 庄内藩。
中老。
明治元年6月新潟で列藩のため武器輸入を約しての帰途、7月25日越後松ヶ崎で西軍に遭遇し戦死。
30歳。
笹 平九郎墓 庄内藩。
服部平蔵組。
鶴岡高畑町住。
明治元年7月28日羽前赤倉越で戦死。
山内三吉墓 庄内藩。
農兵指図役。
鶴岡大海町住。
明治元年9月15日羽後刈和野で戦死。
26歳。
中村七郎右衛門墓 庄内藩。
若年の頃より剣士石川猪太夫に学び剣術に長じ、番頭として禄480石を与えられる。
戊辰戦争時は銃隊頭となり、清川口に出陣し天童藩落城に尽力。
5月には4小隊を率いて長岡に向かい、その後仙台藩の援軍に向かうが、庄内への引き上げの最中寒河江長岡山にて激戦。
明治40年(1907年)1月5日没。
松本十郎墓 庄内藩。
天保10年(1839年)近習頭取戸田文之助の長子として鶴岡に生まれる。
文久3年(1863年)父に従って蝦夷地西海岸に警衛士として赴任する。
慶応3年帰郷し江戸市中取締の任につく。
戊辰戦争時は機事係として各藩に使いし、新庄攻撃には二番大隊に属して参戦。
戦後は松本十郎と名を変え戦後処理の為、新政府要人と交渉にあたる。
明治2年新政府より推挙され、北海道開拓判官、ついで大判官となり、北海道開発初期の行政の基礎を築き名判官と称された。
アイヌを愛しアツシ(アイヌの着物)を着て巡視にあたり、アツシ判官として道民にも深く慕われた。
明治9年(1876年)アイヌ保護政策を主張したが容れられず、自ら職を辞して鶴岡に帰郷し、その後は要職に推されても就かず、ひたすら読書、農芸に勤しんだ。
大正5年(1916年)11月27日没。
享年78歳。