港区西麻布2丁目21-34 地図
会津藩2名墓 | 庄司こと・・・勇助の妻。明治元年8月23日若松甲賀町通で自害。19歳。 庄司勇蔵・・・勇助の父。70石。明治元年8月23日若松甲賀町通で戦死。66歳。墓誌には63歳とある。 |
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小森一貫斎墓 | 会津藩。 450石。 江戸詰で、京都守護職時代は公用人となり活躍する。 戊辰戦争では朱雀士中一番隊中隊頭として楊枝峠を守備、のちに白河口の戦いに参加。 母成峠の戦いでは軍事方として参戦、のちに籠城戦に参戦し、明治元年9月16日に手代木勝任、秋月悌次郎らとともに降伏の使者となった。 のちに東京に護送され、明治4年(1871年)佐倉藩堀田邸に幽閉中に病死した。 |
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保科有隣墓 | 会津藩。 家老・西郷頼母の長男。 通称は吉十郎で、維新後に保科有隣と改名。 母と姉妹ら21人は西軍の城下侵入の際に自刃。 吉十郎は当時11歳で父に連れられ、籠城中の若松城を脱出し、仙台から箱館へ向かう。 戦後は西郷隆盛の援助でアメリカに留学した説や、西南戦争に参戦し鹿児島で戦傷説もある。 明治12年(1879年)病のため死去。 |
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小森駿馬墓 | 会津藩。 一貫斎長男。 鳥羽伏見戦後、父・一貫斎は会津に帰り朱雀士中一番隊中隊頭として白河口、母成峠の守備と軍務に専念するに及び、馬術に秀でた駿馬は父の代役として容保の側用人を務めた。 戦後、猪苗代の謹慎所から東京に護送され、およそ1年半の謹慎生活の後、容保の嗣子容大が家名の再興を許されて斗南に移ることになると謹慎が解かれ、上北郡藤坂村に入居した。 明治6年(1873年)6月東京に移住。 明治44年(1911年)9月27日没。 |
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