栄涼寺

   

長岡市東神田3丁目5-6  地図

北越戦争招魂碑 戦死した長岡藩士の招魂碑。
長岡藩2名墓 伊東道右衛門・・・明治元年5月19日、蔵王堂城跡内にある安禅寺の境内で砲兵隊の指揮を執っていたが、陣地を放棄して北東約1.5キロの城岡にまで撤退して栖吉川を天然の濠として西軍を迎え撃った。
大半の長岡藩兵が戦意喪失し逃げ腰の中、道右衛門だけは槍を手にして奮闘し薩摩藩兵2人を倒したが射殺された。
62歳。
伊東忠蔵・・・砲士。明治元年5月26日越後文納で戦死。
村上藤左衛門供養塔 長岡藩。
砲士伍長。
明治元年5月24日越後杉沢で戦死。
河井継之助墓 長岡藩。
家老。
長岡の戦いで負傷し八十里越から会津に逃れたが、傷が悪化して8月16日、只見町塩沢の医師矢沢家において死亡した。
享年42歳。
その場で荼毘にふされ、従僕の松蔵によって遺体は若松の建福寺に埋葬されたが、西軍が墓を暴いたところ、棺からは石や砂が出てきただけであった。
松蔵は西軍に発見されることを恐れ、墓標をダミーとして、遺骨を山中の松の下に埋めておき、戦火が収まってから、密かに掘り出して栄涼寺に葬った。
二見虎三郎墓 長岡藩。
軍目付、のちに銃卒隊長。
小千谷会談では河井継之助に、長岡藩士として唯一同行した。
明治元年8月25日若松七日町口で傷、9月14日山形で死。
33歳。
石垣龍三郎墓 長岡藩。
河井継之助に従い、会津へ向かう途中で戦死。
13歳。

幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
牧野忠訓墓 長岡藩第12代藩主。
天保15年(1844年)8月15日、宮津藩主・松平宗秀の四男として江戸で生まれる。
安政5年(1858年)に長岡藩主・牧野忠恭の養嗣子となり、文久元年(1861年)に従五位下、玄蕃頭に叙任する。
慶応3年家督を継いで藩主となる。
戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加し西軍と戦うが、5月19日に長岡城が落城し会津を経て仙台へ逃れたが、9月23日に降伏した。
忠訓は逆賊として謹慎処分にされた上、長岡藩は所領、官位共に没収されたが、牧野家が名族であることを考慮されて、四男・牧野忠毅が2万4000石で相続することを許され、長岡藩は存続することとなった。
忠訓は明治2年9月に謹慎を解かれ、明治5年(1872年)には従五位に復した。
明治8年(1875年)6月16日没。
享年32歳。
三島億二郎墓 長岡藩。
文政8年(1825年)長岡藩士伊丹市左衛門の次男として長岡城下に生まれる。
弘化元年(1844年)長岡藩士川島徳兵衛の養子となる。
戊辰戦争では当初は開戦に反対していたが、河井継之助の説得に同意、軍事掛となり奮戦し、八丁沖からの長岡城奪還戦にも参加している。
戦後は三島億二郎と改名し、長岡藩大参事となり、明治3年(1870年)には柏崎藩大参事に任命された。
その後は士族授産や北海道開拓に尽力した。
明治25年(1892年)3月25日没。
享年68歳。
秦 八郎墓 長岡藩。
旧名は波多謹之丞。
戊辰戦争では主戦を唱え、先鋒銃士隊長として榎峠開戦の口火を切った。
後に軍資金を守る御金奉行の要職についた。
戦後は長岡藩の再興に尽力し人材の育成につとめ、明治7年(1874年)10月15日に阪之上小学校の初代校長となった。
没年不詳。
西軍供養墓 戊辰戦争で、栄涼寺は西軍の野戦病院となっており、ここで戦病死した西軍兵士の供養墓。