八条原城跡

   

東広島市志和町志和西621-1周辺  地図

広島藩八条原城跡 戊辰戦争の勃発に際し、藩は戦乱の拡大と、外国軍艦の干渉等不測の事態に備え、前年に神機隊が頓営していた志和の地に、藩庁別館及び学寮兼兵営、練兵場を設営し、非常時に備えることに決した。
明治元年7月に武具奉行高間多須衛を総監として、八条原に工事を開始し、世子浅野長勲、藩主浅野長訓らも相次いで来村指揮した。
そして志和への入口内村越、小原峠、御堂原、榎山峠、湯坂峠、関川口の6ケ所に柵門を設け、神機隊留守隊をもって守衛させ、その他の間道も一切封鎖し、志和盆地を一大要塞地帯とした。
一方、明治2年4月には藩士子弟300人を選抜して学寮に入れ、文武塾を開校するなど活発に動き始めていた。
しかし、動乱は沈静に向い、明治2年12月に築城工事は中止、諸施設は解体払い下げとなった。