会津美里町字瀬戸町周辺 地図
死節碑 | 萱野隊の生存者によって、明治28年(1895年)8月に建立された。 題字は松平容大、碑文は南摩綱紀が受け持った。 裏面には萱野隊の戦死者6名と生存者30名の名が刻まれている。 佐藤政治・・・5石2人扶持。会所次番格。萱野隊。明治元年7月27日越後草生水で戦死。22歳。 小川勇之助・・・4石2人扶持。別楯隊寄合萱野右兵衛隊。明治元年8月1日越後草生水で戦死。19歳。 岸 清兵衛・・・5石2人扶持。新領別楯隊寄合組萱野隊。明治元年8月1日越後赤坂山で戦死。55歳。 栗城惣吾・・・4石2人扶持。萱野右兵衛隊。明治元年8月1日越後赤坂山で戦死。37歳。 新藤仲節・・・5石2人扶持。別楯隊寄合萱野隊。明治元年8月1日越後草生水で戦死。 遠藤虎之助・・・5石2人扶持。明治元年8月1日越後石間口で傷、24日中村で死。41歳。 |
明治戊辰戦役萱野隊記念碑 | 本郷焼の製陶に従事していた関係者も志願兵として36名が参加し、中には15、6歳の少年まで出征している。 みな士分扱いを受けて、武道と操錬に力を入れ、時折若松に出向いて正規の藩兵と合同訓練を受けていた。 御弓新田出征者ともいう。 萱野右兵衛は、越後口総督一瀬要人の配下で、番頭隊長として約250名を引き連れて激烈だった越後戦線で戦っていた。 陶業関係の志願者はこの萱野隊の寄合組に属し、2月から9月22日の若松城落城まで各地を転戦し、6名の戦死者を出した。 この碑は、昭和32年(1957年)9月24日に行われた戊辰戦役90年祭に、萱野隊柏村善平の孫によって寄進された。 |
萱野隊長之碑 | 会津藩。 500石。 物頭、町奉行、番頭を歴任。 戊辰戦争では会津本郷の士分製陶業者を率いて越後に出陣した番頭隊長。 水原で奉行を兼ね、敗戦後越後高田に監禁された。 1720人の旧会津藩士を藩老格として統轄した。 のち部下の招きで本郷に移住、陶土を砕く萱野水車を造り業とした。 明治5年(1872年)6月24日病死。 享年33歳。 |