旗巻峠

   

丸森町大内周辺  地図

旗巻古戦場之碑 明治元年9月10日、西軍の右翼を担う長州藩2中隊は二手に別れ、長州藩良城隊は単独で旗巻北東の敵陣地を目指し、残る長州三番隊と中村藩1小隊は北に迂回して旗巻峠の北口を目指した。
北東陣地を目指した良城隊は哨戒する仙台藩兵を蹴散らして前進するが、そのために居場所を察知されて高地からの射撃を集中された。仙台藩の装備もこの時点になると整い、戦術も戦闘経験から学んでいたために良城隊は前進できず、山中に隠れて迂回する選択肢をとった。だが安全のために大きく迂回したため、気がついたときには旗巻峠の北東陣地のはるか北方の大内村にまで達していた。
長州三番隊と中村藩1小隊は標高200mの山頂にある旗巻峠北口の陣地を目指していたが、山頂からの仙台藩の銃撃が激しく、歴戦の長州藩であっても進むことはできなかった。
中央本道を進んでいた館林藩220名と中村藩1小隊も仙台藩の激しい抵抗の前に立ち往生していた。砲撃の援護を受けて両側の高地に回りこもうとするものの、特に正面の守りだけに強固であり、一向に効果的な攻撃ができずにいた。
二方面で優位に戦いを進めていた仙台藩兵だったが、そのために注意は北と東にひきつけられていた。この隙に左翼の大軍、鳥取藩6小隊と砲兵、御親兵、広島藩、相馬藩1小隊は南に回って羽黒山の山頂に上っていた。
羽黒山から旗巻峠は北へ2km。しかも稜線の上を行くために標高差も少なく、その行軍を妨げるものはなかった。左翼隊は北へ前進を始めると仙台藩は戦力を北と北東にとられていたこともあって、南側の山頂陣地を抗戦もできずに奪われる。
仙台藩は突然山頂を埋めた西軍に驚きながら戦力の配置転換を実行しようとするが、左翼隊の素早い寄せはその隙を与えなかった。
西軍は一斉に旗巻峠陣地になだれ込み、仙台藩は総崩れで退却を始める。仙台藩兵は北西にある阿武隈川沿いの金山へと逃げ込み、旗巻峠を占拠した西軍は西の青葉と北西の大内村を押さえ、そこではぐれていた長州藩良城隊と合流する。
この日の両軍の損害は、西軍が戦死7名に対し、仙台藩は戦死46名であった。
明治戊辰戦死者供養碑
仙台藩士戦死塚 旗巻峠の戦いで戦死した仙台藩15名の合葬墓。

仙台藩戦死者
仙台藩士戦死塚 旗巻峠の戦いで戦死した仙台藩12名の合葬墓。

阿部保之助・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
石川栄蔵・・・明治元年9月10日磐城鬼石で戦死。
佐藤是三郎・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
庄子伊右衛門・・・卒。高泉左覚手。登米郡吉田の人。明治元年9月10日磐城旗巻峠で戦死。36歳。
高橋与右衛門・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
荷田沢五郎・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
半田安五郎・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
星村初三郎・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
松本嘉十郎・・・銃士。加藤多門手。明治元年9月10日磐城旗巻で戦死。
吉田孫三郎・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
渡辺庄造・・・幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
菅野升吉碑 秋田藩。
旗巻峠で戦死したと言われている。

幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。