本覚寺

   

登米市登米町寺池字道場9  地図

千葉利平墓 仙台藩。
利兵衛とも。
卒。
登米伊達筑前家来。
明治元年7月16日(18日とも)岩代浅川で戦死。
29歳。
蓮沼良左衛門墓 仙台藩。
登米伊達筑前家来。
小隊長。
明治元年8月16日(17日とも)磐城駒ヶ嶺で戦死。
35歳。
丸岡順兵衛墓 仙台藩。
源兵衛とも。
登米伊達筑前家来。
明治元年8月16日磐城駒ヶ嶺で戦死。
28歳。

墓誌には12月2日とある。
米谷吉郎右衛門墓 仙台藩。
登米伊達氏の家臣。
戊辰戦争では駒ヶ嶺などで戦い功あり、戦後は帰農して殖産興業に従事した。
明治元年11月、たまたま幕府敗残兵の純義隊長松村某ら11人が吉郎右衛門の家に投じ、寒さが肌を刺す季節で吉郎右衛門は窮状を見かね手厚く待遇した。
それを知った登米の重臣秋山 峻は謀反と偽って神機隊長の寺西繁人に訴えた。
明治2年5月3日、吉郎右衛門はそれを鵜呑みにした寺西に斬られ死す。
45歳。
米谷佐守墓 仙台藩。
吉郎右衛門弟。
戊辰戦争では参謀として相馬口に出陣し、8月16日の駒ヶ嶺の戦いでは西軍を退散させ、藩主慶邦より激賞され名刀一口を賜った。
明治2年5月、兄の吉郎右衛門が秋山 峻の奸計に陥ったと聞き、急遽帰ったが時既に遅く斬られていた。兄の無実を晴らさんと東京へ行き、冤罪を民部省や弾正台に訴え出、それにより秋山は捕らえられ仙台の牢に入れられたが、事官の威信に関するためか再審は行われず、3年を経ても処分はされなかった。
佐守は疲労甚だしく明治4年(1871年)3月5日憤死。
33歳。

※幕末維新全殉難者名鑑には、明治元年8月16日磐城駒ヶ嶺で戦死とあるが、誤り。