市原市下野440 地図
真板左一郎墓 | 幕府軍。 本名は奥村七郎と言い姫路藩士と伝えられている。 戦いで足を負傷し潤井戸に落ち延び、飛鋪清一郎宅へ匿われ療養した。 西軍の残党狩りのため、身を隠していたが、徳川方への恩赦により白日の身となった。 跡継ぎの居なかった真板家を継ぎ、真板左一郎と名乗った。 明治22年(1889年)11月6日から大正2年(1913年)12月31日まで三成校(現在の市東第一小学校)に訓導兼校長として勤務した。 漢学に優れ児童及び地域の人々の尊敬篤く、退職して学校を去る時には、多くの住民が沿道に並び涙で別れを惜しんだと語り伝えられている。 大正7年(1918年)11月29日没。 享年74歳。 没後、大正14年(1925年)11月29日に関係者により『頑石遺稿』と題する作品集が編まれた。 また顕彰碑も同月に門人らによって建立された。 |
![]() |
|
真板左一郎顕彰碑 | |
![]() |