会津若松市一箕町大字八幡字弁天下1404-4周辺 地図
森 新太郎墓 | 会津藩。 6石2人扶持。 白虎足軽隊。 明治元年6月13日磐城大平口で戦死。 16歳。 |
星 勇八墓 | 会津藩。 白虎寄合二番太田隊。 明治元年8月10日越後石間口佐取で戦死。 16歳。 |
百瀬外次郎墓 | 会津藩。 白虎寄合二番太田隊。 明治元年8月10日越後石間口で戦死。 17歳。 |
小松八太郎墓 | 会津藩。 白虎寄合二番太田隊。 明治元年8月12日越後石間口佐取で戦死。 16歳。 |
佐々木新六郎墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年8月15日越後赤谷で戦死。 16歳。 |
安達藤三郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 17歳。 |
有賀織之助墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自決。 16歳。 |
池上新太郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自決。 16歳。 |
石田和助墓 | 会津藩。 6人扶持。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自決。 16歳。 |
石山虎之助墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で戦死。 16歳。 |
伊東悌次郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 17歳。 |
伊藤俊彦墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 17歳。 |
井深茂太郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 16歳。 |
佐久間直記墓 | 会津藩。 100石。 白虎士中一番春日隊。 明治元年8月23日若松鳥居町で戦死。 16歳。 |
篠田儀三郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 17歳。 |
鈴木源吉墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 17歳。 |
津川喜代美墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 16歳。 |
津田捨蔵墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 17歳。 |
永瀬雄次墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自決。 16歳。 |
西川勝太郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自決。 17歳。 |
西村四郎墓 | 会津藩。 白虎士中一番春日隊。 明治元年8月23日若松鳥居町で戦死。 17歳。 |
野村駒四郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で戦死。 17歳。 |
林 八十治墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 16歳。 |
古川深松墓 | 会津藩。 6石2人扶持。 白虎足軽隊。 明治元年8月23日若松博労町自在院で自刃。 14歳。 |
間瀬源七郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 17歳。 |
簗瀬勝三郎墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で戦死。 17歳。 |
簗瀬武治墓 | 会津藩。 白虎士中二番日向隊。 明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。 16歳。 |
藤森八太郎墓 | 会津藩。 14石3人扶持。 白虎寄合一番原隊嚮導。 明治元年8月25日越後津川で戦死。 16歳。 |
星 八弥墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年8月29日会津舟渡で戦死。 16歳。 |
若林八次郎墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年8月越後赤谷(9月15日会津一ノ堰とも)で戦死。 16歳。 |
鈴木平助墓 | 会津藩。 白虎寄合二番太田隊。 明治元年9月1日会津朝立で戦死。 17歳。 |
山本太郎墓 | 会津藩。 白虎寄合二番太田隊。 明治元年9月1日会津朝立(8月23日若松天寧寺町口とも)で戦死。 17歳。 |
岸 彦三郎墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊嚮導。 明治元年9月5日会津窪村で戦死。 17歳。 |
高崎駒之助墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年8月24日越後津川で傷、9月5日越後八木山で死。 17歳。 |
青山勇之進墓 | 会津藩。 白虎寄合二番太田隊。 明治元年9月14日会津小田垣で戦死。 17歳。 |
安恵助三郎墓 | 会津藩。 白虎寄合二番太田隊。 明治元年9月14日会津小田垣で戦死。 16歳。 |
池田勇太郎墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月15日会津一ノ堰で戦死。 17歳。 |
小浅安次郎墓 | 会津藩。 6石2人扶持。 白虎足軽隊。 明治元年9月15日若松城内(8月23日三ノ丸とも)で戦死。 17歳。 |
坂井源吾墓 | 会津藩。 白虎士中一番春日隊。 明治元年9月15日若松城で戦死。 17歳。 |
樋口勇四郎墓 | 会津藩。 7石5斗2人扶持。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月15日会津一ノ堰で戦死。 16歳。 |
好川瀧三郎墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月15日会津一ノ堰で傷、16日会津面川で死。 16歳。 |
木村次郎墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月17日会津一ノ堰で戦死。 17歳。 |
関原繁太郎墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月17日(15日とも)会津一ノ堰で戦死。 17歳。 |
江川次郎八墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月19日会津面川で戦死。 17歳。 |
高橋富太郎墓 | 会津藩。 白虎足軽隊嚮導。 明治元年8月23日若松城不明門で傷、9月29日城内で死。 17歳。 |
黒河内八十記墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月会津舟渡(会津朝立とも)で戦死。 17歳。 |
椎野恒四郎墓 | 会津藩。 常四郎とも。 白虎足軽隊。 明治元年9月若松城で戦死。 14歳。 |
遠藤嘉龍二墓 | 会津藩。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月11日会津熊倉で傷、10月7日死。 15歳。 |
遠藤清臣碑 | |
鈴木久五郎墓 | 会津藩。 6石2人扶持。 免許。 白虎足軽隊。 明治元年9月若松城内で傷、10月12日会津御山で死。 16歳。 |
鈴木五郎墓 | 会津藩。 年割。 白虎寄合一番原隊。 明治元年9月15日会津一ノ堰で傷、11月会津雨屋で死。 16歳。 |
少年武士慰霊碑 | 白虎隊士以外で戦死した少年兵62名の慰霊碑。 少年武士戦死者 |
白虎隊自刃之跡 | 白虎隊自刃の地に建つ。 |
会津藩殉難烈婦碑 | 会津戦争で戦死した、会津藩の婦女子の慰霊碑。 |
飯沼貞雄墓 | 会津藩。 旧名貞吉。 戊辰戦争では生年を偽って白虎士中二番隊に参加。 飯盛山では咽喉を突いたが急所を外してしまい人事不省のまま死にきれずにいたが、印出新蔵の妻はつに連れられて塩川村の三本住庵という町医者に傷口を縫って薬をつけてもらい、落城までの期間、入田付村山中の不動堂に隠れ住んだ。 戦後、他の藩士達と共に謹慎し、赦免後に名を貞雄と改めて静岡の林 三郎塾に入り、明治5年(1872年)に工部省の技術教場に入所して電信建築技師となった。 日清戦争には歩兵大尉として出征し、帰還後は逓信省に戻り、仙台逓信管理局の初代公務部長を務めた。 昭和6年(1931年)2月12日没。 享年77歳。 墓は仙台の輪王寺にあるが、昭和33年(1958年)戊辰90年祭を執行するにあたり、他の隊士らの眠る飯盛山に彼の毛髪と歯を移して墓碑を建て、その霊を慰めた。 |
飯沼貞雄翁記念碑 | |
水戸藩諸生党鎮魂碑 | 元治元年(1864年)の天狗党挙兵前に結成。 中心人物は佐藤図書、朝比奈弥太郎、市川三左衛門でいずれも家老格の家柄。 彼らは城代家老・鈴木石見守を中心に、天狗党に対する一大勢力を形成した。 戊辰戦争では市川三左衛門を将として約500名で脱藩し西軍に抗戦、長岡、会津と転戦した。 若松落城後は意を決して水戸へ再び侵入し、水戸弘道館を占拠して天狗党と激しく戦ったが戦ったが、諸生党は壊滅し、三左衛門は江戸へ逃れたが、明治2年2月26日に捕縛され、身柄はただちに水戸へ護送され逆磔となった。 |
郡上藩凌霜隊之碑 | 郡上藩は西軍の命に従って、藩士300名を岐阜県内にあった旧幕府領警備に出張させた。 しかし藩は優秀な藩士45名を集合させ「無届脱藩」という形で旧幕府軍に味方して出兵させた。 この部隊が凌霜隊である。 これは旧幕府勢力が復活した場合に備えての手段であったとする説、最近の研究では江戸家老と国家老の権力争いに伴う情勢のなか、旧幕府寄りの江戸詰め家臣達を中心とした動きであったという見方もでてきている。 江戸家老の長男で、17歳の朝比奈茂吉を隊長とする凌霜隊は日光、宇都宮、会津と転戦し若松城の籠城戦にも活躍した。 45名の隊員中、8名の戦死者と2名の行方不明者を出した。 |
吉田伊惣次墓 | 本陣のあった滝沢村の肝煎。 白虎隊士の遺体の惨状を見かねて、その遺体を密かに埋葬した(実際には伊惣次は後方部隊の使役に駆り出されていて、妻の左喜が埋葬したのが事実のようである)。 左喜は人夫を何人か雇い、夜間数回にわたって白虎隊士の遺体を2キロ離れた実家の菩提寺である妙国寺に埋葬した。 遺体は4体といわれているが、正確なところはわかっていない。 また飯盛山の墓地にも埋葬されたというが、その数も明らかではない。 これが西軍黒羽藩の知るところとなり、軍監中村半次郎の命により、左喜に代わり夫の伊惣次が捕えられ投獄された。 しかし、この行為は会津藩士の命ではなく、村民の気持ちから出たこととわかって、伊惣次は釈放されたが、埋葬された白虎隊士の遺体は西軍の手で再び掘り返され、野に投棄された。 |
吉田伊惣次篤志碑 | |