会津若松市建福寺前7-3 地図
池上友次郎墓 | 会津藩。 諸生組佐川隊。 明治元年1月5日淀で戦死。 19歳。 |
南無釈迦牟尼仏 | 神保家・井上家の先祖菩提塔。 神保修理・・・家老神保内蔵助の長男。京都で国事に奔走、志士と交わる。明治元年初め江戸で恭順を主張。藩論統一のため松平容保に切腹を命じられ、2月13日三田の下屋敷で従容と切腹。34歳。 井上丘隅・・・600石。明治元年8月23日若松甲賀町の自邸で妻、娘と自刃。54歳。 井上チカ・・・丘隅の娘。明治元年8月23日若松甲賀町の自邸で父、母とともに自刃。31歳。 井上トメ・・・丘隅の妻。明治元年8月23日若松甲賀町の自邸で夫、娘と自刃。52歳。 神保内蔵助・・・1800石。若年寄から家老。明治元年8月23日若松五之丁土屋一庵邸で自刃。53歳。 神保雪子・・・修理の妻。井上氏。明治元年8月25日若松柳橋で勇戦、死す。23歳。 ※現在は消失しています。(令和4年10月現在) |
池上新兵衛墓 | 会津藩。 100石。 青龍士中一番鈴木隊半隊頭。 明治元年5月1日磐城白河で戦死。 40歳。 |
会津藩2名墓誌 | 北原軍太夫・・・500石。朱雀士中三番上田隊小隊頭。明治元年7月1日磐城白河羽太先で戦死。33歳。 北原四郎・・・軍太夫弟。朱雀士中二番田中隊。明治元年8月29日若松長命寺で戦死。21歳。 |
小笠原主膳墓 | 会津藩。 200石。 朱雀足軽二番隊小隊頭。 明治元年7月29日岩代二本松で戦死。 34歳。 |
神保内蔵助墓 | 会津藩。 1800石。 若年寄から家老。 明治元年8月23日若松五之丁土屋一庵邸で自刃。 53歳。 |
会津藩4名墓 | 中沢きせ子・・・志津馬の母。明治元年8月23日若松本一ノ丁の自邸で家族と自害。45歳。 中沢茂彦・・・志津馬の伜。明治元年8月23日若松本一ノ丁の自邸で家族と死。2歳。 中沢すて子・・・志津馬の妻。明治元年8月23日若松本一ノ丁の自邸で家族と自刃。21歳。 中沢てる子・・・志津馬の祖母。明治元年8月23日若松本一ノ丁の自邸で家族と自害。60歳。 |
矢島村右衛門墓 | 会津藩。 100石。 上田隊。 明治元年8月23日若松甲賀町口で戦死。 49歳。 |
会津藩2名墓 | 梶原悌蔵・・・100石。幌役。進撃小室隊。明治元年8月29日若松長命寺で戦死。55歳。 梶原豊記・・・悌蔵伜。物頭席。進撃小室隊世話役。明治元年8月29日若松長命寺で傷、9月5日城内で死。25歳。 ※現在は消失しています。 |
生駒五兵衛墓 | 会津藩。 800石。 番頭。 慶応3年12月10日京都御所守衛隊長の任を土佐藩に引つぎ大坂へ退去。 明治元年9月15日若松城二ノ丸で戦死。 57歳。 |
赤羽七郎墓 | 会津藩。 主計弟。 明治元年9月若松融通寺町で傷、19日城内で死。 17歳。 |
北村直衛墓 | 会津藩。 210石。 大目付。 遊撃小山田隊頭。 明治元年9月14日若松諏訪社で傷、27日青木で死。 49歳。 |
下司伊兵衛墓 | 会津藩。 100石。 青龍士中三番木本隊。 明治元年5月24日越後杉沢で傷、明治2年4月12日会津高田で死。 42歳。 |
河井継之助君埋骨遺跡 | 長岡藩。 120石。 家老。 藩財政、軍制を改革。 明治元年中立を主張したが、東山道軍監岩村精一郎に峻拒されて成らず。 止むなく抗戦、7月25日越後長岡城下で傷、8月16日会津大沼郡塩沢村で死。 42歳。 その場で荼毘にふされ、従僕の松蔵によって遺体は建福寺に埋葬されたが、西軍が墓を暴いたところ、棺からは石や砂が出てきただけであった。 松蔵は西軍に発見されることを恐れ、墓標をダミーとして遺骨を山中の松の下に埋めておき、戦火が収まってから、密かに掘り出して長岡の栄涼寺に葬った。 |
村上求馬墓 | 幕府軍。 大鳥圭介指揮草風隊長。 明治元年6月26日下野藤原村で戦死。 |
藤沢内蔵丞墓 | 会津藩。 祐筆。 戸ノ口原の戦いでは役夫隊長として出陣。 維新後は若松で塾を開き多数の子弟を指導した。 明治25年(1892年)5月3日没。 |
藤沢啓次墓 | 会津藩。 内蔵丞次男。 白虎士中二番隊の生存隊士。 のちに白虎士中合同隊に参加。 明治33年(1900年)9月6日没。 |
藤沢正啓墓 | 会津藩。 通称忠八郎。 内蔵丞長男。 大砲白井隊員として鳥羽・伏見に戦い、江戸でフランス式陸軍の訓練を受けたのち、日光口、白河口の防戦にも従軍。 若松城入城ののち長命寺の戦い、さらに高田・南会津にも出陣。 維新後は各地の警察署長・警視庁典獄などを務める。 また松平家の家政顧問を務めた。 『会津藩大砲隊戊辰戦記』を残す。 昭和9年(1934年)3月19日没。 享年83歳。 贈正五位。 |