文京区本駒込3丁目19-17 地図
丹羽十郎右衛門墓 | 関宿藩。 彰義隊(万字隊)として明治元年5月15日江戸上野山で戦死。 |
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溝口直正墓 | 新発田藩第12代藩主。 安政2年(1855年)2月25日、溝口直溥の四男として生まれる。 慶応3年(1867年)8月、直溥の隠居に伴い家督を継ぐ。 戊辰戦争では周辺諸藩の圧力もあり、新発田藩はやむなく奥羽悦列藩同盟に参加するが、7月に西軍が軍艦で領内に上陸すると新発田藩は一転して西軍側として行動することとなる。 維新後は東京に移住し宮中の職を歴任する。 大正8年(1919年)10月17日没。 享年65歳。 |
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板倉勝静墓 | 備中松山藩第7代藩主。 文政6年(1823年)1月4日、陸奥白河藩主・松平定永の八男として生まれ、備中松山藩の第6代藩主・板倉勝職の養子となり、嘉永2年(1849年)閏4月6日に勝職の隠居にともない家督を継いだ。 安政4年(1857年)に奏者番兼寺社奉行に任命されたが、安政の大獄での井伊直弼の強圧すぎる処置に反対して寛大な処置を行い、直弼の怒りを買って安政6年(1859年)に罷免された。 直弼死後の文久元年(1861年)に再び奏者番兼寺社奉行として幕政に復帰し、翌年には老中に昇格した。 鳥羽伏見の戦いの際は徳川慶喜と大坂にいて、会津藩主・松平容保らと共に開陽丸で江戸へ退却した。 その後は宇都宮から箱館まで転戦したが、明治2年5月25日に自訴し上野国安中藩で終身禁固刑となった。 明治22年(1889年)4月6日没。 66歳。 |
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板倉勝静碑 | |
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榎本武揚墓 | 幕府軍。 天保7年(1836年)西丸御徒目付、榎本武規の次男として生まれる。 昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。 帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、蝦夷共和国の総裁となる。 箱館戦争で敗北し投獄されたが、釈放後は明治政府に出仕し要職を歴任。 明治41年(1908年)10月26日没。 享年73歳。 |
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細谷安太郎墓 | 幕府軍。 嘉永4年(1851年)4月27日、旗本細谷喜三郎の長男に生まれる。 慶応元年(1865年)に新設された横浜仏語伝習所でフランス語を学び、卒業後幕府陸軍に入隊し砲兵差図役に任命される。 戊辰戦争では強硬な抗戦論者であり、榎本武揚の江戸脱走に従って箱館戦争に身を投じ、中島三郎助の配下として砲兵隊を率いて奮戦する。 明治5年(1872年)横須賀造船所に技官として勤務。 大正10年(1921年)8月5日没。 享年71歳。 |
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