満福寺

   

喜多方市字馬場2459  地図

長谷川多三郎墓 会津藩。
19石9斗1合。
独礼。
正奇隊杉浦隊。
明治元年8月29日若松城下で戦死。
30歳。


※どちらの墓碑も、左側面に8月29日長命寺戦死と刻んであるが、当日の長谷川姓の戦死者は長谷川多三郎のみでありますが、磨耗が激しく被葬者の解読ができなかったため、2つとも掲載しました。
但し、どちらか片方は長谷川多三郎であることは間違いありません。(多三郎の父・太郎兵衛の名が見えます。)
村川源之助墓 十津川郷士隊。
御親兵。
明治元年9月11日岩代荒井村で戦死。

前ノ原墓地に埋葬されていたが、墓地移転に伴い満福寺に改葬。
日向内記墓 会津藩。
700石。
朱雀士中二番隊長となり、砲兵隊長の山川大蔵が若年寄に昇進したので後任の砲兵隊長として日光口に赴いた。
明治元年4月18日、藩主護衛の任にあった白虎士中二番隊頭に任命された。
8月22日、白虎士中二番隊を率いて戸ノ口原に出陣したが食糧の携帯がなかったので暗夜食糧の調達のため隊を離れてその間に局面は急転、白虎隊士自刃の悲劇がおきた。
8月27日頃、白虎士中二番隊の生存者を中核として白虎士中合同隊が編成され、その隊長となった。
また援軍の凌霜隊もその指揮下におかれ、西出丸の防衛に当たった。
内記が、飯盛山での自刃を知ったのは開城後であった。
戦後は斗南に移住したが、明治4年(1871年)に会津に戻り、喜多方町に寄留して雑業に従事した。
明治18年(1885年)11月14日没。