小出島陣屋跡

   

魚沼市諏訪町1丁目22周辺  地図

戊辰戦争懐旧碑 明治元年2月15日、会津藩は越後の軍事上の要衝として重視し、それまで代官しかいなかった小出島陣屋に町野源之助(主水)を奉行として派遣し、西軍の来襲に備えていた。
閏4月27日早朝、西軍は小出島南方の佐梨川と北方の四日町の二方面から攻撃を開始した。
会津藩200名余に対して西軍は1000人もの圧倒的な兵力だった。
会津藩軍の多くを占めた村兵や郷兵は、直前に徴用された農兵がほとんどで、大半は銃声を聞くと逃げ去ったという。
2時間の激闘の末、四日町で36軒、小出島で132軒が焼失し会津藩は六十里越方面へ敗走した。
小出島での会津藩は当日10名、後日自刃したり、傷が悪化して死亡した4名を合わせて14名が戦死した。
西軍は当日12名、負傷後に死亡した4名を合わせて16名が戦死した。

この碑は明治36年(1903年)6月に大篆額は松平容大の書で、撰文は南摩綱紀の書によって建立された。
戦死者姓名 三国峠と小出島で戦死した会津藩14名の名が刻まれている。

会津藩戦死者
応答歌歌碑 表面には小出島の戦闘で深手を負い四日町の覚張常五郎宅で自刃した会津藩士の辞世の句が刻まれている。

 筒音に 鳴く音やすめし ほととぎす 会津に告げよ 武士の死を

会津藩士の名は伝わっていないが、辞世に添えられた「輪形月」の文字から望月武四郎と推測される。
裏面には戦後間もなく辞世を目に留めた西軍の将兵である松代藩士蟻川賢之助の返句が刻まれている。

 ほととぎす 魚野川辺の 夏嵐 永久に伝えよ 波騒の声

昭和63年(1988年)6月12日建立。