仙台市青葉区郷六字葛岡42-1 地図
松井玄順墓 | 仙台藩。 軍医として従軍中、郡山にて病没。 40歳。 幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。 愚鈍院墓地内。 |
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飯倉鉄三郎墓 | 仙台藩。 五番大隊長佐藤宮内手。 別所孫左衛門指揮。 明治元年5月1日白河で戦死。 35歳。 愚鈍院墓地内。 |
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中村嘉右衛門墓 | 仙台藩。 明治元年5月1日白河で戦死。 34歳。 愚鈍院墓地内。 |
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下田勇治墓 | 仙台藩。 富田哲之助指揮。 明治元年7月13日磐城平城で戦死。 20歳。 見瑞寺墓地内。 |
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富田哲之輔墓 | 仙台藩。 哲之助とも。 小隊長。 明治元年7月13日磐城平城で戦死。 妙心院墓地内。 |
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芳賀良治墓 | 仙台藩。 明治元年7月13日磐城平城で戦死。 墓誌には7月15日とある。 善導寺墓地内。 |
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石沢新五郎墓 | 仙台藩。 銃士。 8番大隊長中島兵衛之介手。 木幡松三郎指揮。 明治元年7月28日岩代二本松近郊高倉で戦死。 42歳。 墓碑には7月27日とある。 愚鈍院墓地内。 |
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門沢源太夫墓 | 仙台藩。 銃士。 明治元年8月7日磐城大壷で戦死。 24歳。 愚鈍院墓地内。 |
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浜田源五郎墓 | 仙台藩。 卒。 明治元年9月10日磐城椎木山で戦死。 28歳。 妙心院墓地内。 |
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林 市治墓 | 仙台藩。 明治2年2月3日箱館で戦死。 愚鈍院墓地内。 |
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栗村五郎七郎墓 | 仙台藩。 200石。 九番大番組。 江戸に出て、桂 小五郎、後藤象二郎、頼 三樹三郎らと交わる。 戊辰戦争では他藩との応接掛となり、世良修蔵が出張中、白河城を守っていた長州藩中村小次郎は会津兵に急襲され足に弾丸を受け、介抱されて引き揚げる途中の閏4月22日、藩命により菊地求馬、太田行蔵とで二本松にて中村を襲い刺殺した。 戦後御目付となり戦後の復興に励んでいたところ、突然逮捕され、明治2年4月14日切腹。 29歳。 林松院墓地内。 |
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但木土佐墓 | 仙台藩。 1500石。 奉行として藩財政再建などに成功。 明治元年会津・庄内救済のため奥羽越列藩同盟を推進。 戦犯として同年9月東京へ護送され、明治2年5月19日斬。 53歳。 愚鈍院墓地内。 |
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但木成行招魂碑 | |
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真田喜平太墓 | 仙台藩。 350石。 鳥羽伏見開戦後、参政を命じられ800石に加増される。 仙台一藩にて会津征討の勅命により出兵。4月土湯峠にて討会開戦。 この会津藩との戦争は密約があり空砲で撃ち合う予定であったのが、討会論者の真田が現場に現れたため、急遽実弾での撃ち合いとなってしまい、会津藩の不信感を煽る。 閏4月20日、世良修蔵が暗殺されると聞くや、真田は命を待たず帰国。奥羽越列藩同盟が東征総督府への攻守同盟へと変化したことに激怒し、職を辞し自宅に引き篭もってしまう。 6月、白河を奪還しあぐねる藩は真田の復帰を懇願し渋々復帰。 明治10年(1877年)、西南の役が起こると、宮城県旧士族として700名の召募巡査の総長を拝命するも、辞して奉ぜず。 明治20年(1887年)10月16日没。享年64歳。 成覚寺墓地内。 |
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大童信太夫墓 | 仙台藩。 40石。 公儀使、江戸留守居役、大番士。 信太夫は藩きっての開国論者であったので、早くから海外情勢に目を向け若手藩士に英語を学ばせた。 3歳年下で親交のあった福沢諭吉に資金を扶助して大成させ、『海岸防御論』『一五インチ砲草稿』『雷銃操法』等の軍事書の翻訳を行わせ、高橋是清ら若手藩士に読ませて育成していた。 慶応3年(1867年)正月、福沢諭吉が幕府の軍艦と武器購入の随員で渡米の際、2500両を渡し洋書購入を依頼し海外情報を積極的に取り入れていた。 大童は強硬な佐幕派で、勝 海舟や福沢諭吉はじめ幅広い人脈を駆使し、軍艦の購入にも奔走して戦備確保に努め、松倉 恂と共に但木土佐を援け幕府との交渉に当たった。 戊辰戦争が始まると江戸の藩邸を売却して、その邸に潜伏し銃弾薬の購入を進め、ミニエー銃4000挺を購入した。 5月上野戦争で輪王寺宮が榎本隊の軍艦「長鯨丸」で逃れる際、仙台藩邸にいた藩士達に上屋敷にあった宝物や貴重な陶器類を積み込ませ、米沢藩士雲井龍雄も密かに乗船させた。 明治2年3月、仙台藩会計係に任命され、旧藩主から黒川 剛を名乗るよう命ぜられた。 6月仙台騒擾処分で家跡没収、家財欠所となって探索を受け、捕縛を逃れて東京に潜伏した。 福沢諭吉は、大童の救出に奔走し80日の謹慎で許された。 後に、大蔵省、文部省、内務省、警視庁に奉職し、牡鹿、黒川、宮城郡長を歴任した。 明治22年(1889年)憲法発布の特赦によって家名を復興し、5月に大童信太夫に復名した。 高橋是清の育ての親であり、晩年伊達家家令となる。 明治33年(1900年)10月2日没。 享年69歳。 願行寺墓地内。 |
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古田良恭墓 | 仙台藩。 通称山三郎。 800石、参謀、参政。 戊辰戦争では磐城口の若年寄兼軍事参謀を仰せ付けられて湯長谷に着陣。 富田小五郎、柴田中務等応援隊が一大隊を率いて、中之作に入港し、直ちに小名浜で両人と軍議をし、富田は小名浜に、柴田は平本道、良恭は磐城平藩と合して山手に備え、西軍と各方面で激しい銃撃戦となり多くの犠牲者を出した。 9月3日、仙台城での軍議に出て、のち仙台藩は降伏に決した。 10月石巻へ行き、脱藩した額兵隊星 恂太郎等の説得に努めた。 大正8年(1919年)12月28日没。 享年83歳。 報恩寺墓地内。 |
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