三春町字大町164-12周辺 地図
三春城跡 | 戊辰戦争では、棚倉城落城後に同盟を離脱し西軍に恭順したため、落城を免れた。 |
明治戊辰役三春藩烈士碑 | 三春藩は列藩同盟に加盟したものの、上層部は勤王派で、棚倉落城後の7月26日に同盟を離脱した。 その一方で仙台や福島に使者を出して同盟を装っていた。 この碑は同盟離脱が露見し出張先で東軍によって殺害された4人の三春藩士の慰霊碑。 大関兵庫・・・130石。祐筆。明治元年7月26日藩論一変、西軍三春入城となったため、たまたま奥羽同盟軍事局に派遣されて福島滞在中東軍の手で殺害。 大山巳三郎・・・藩論一変、西軍三春入城の明治元年7月26日、仙台に使して二本松に在ったため東軍に捕えられ、殺害された。 不破関蔵・・・180石。江戸元締用人。藩論一変により西軍が三春に入城した明治元年7月26日、出張先の二本松で東軍に捕斬された。 渡辺喜右衛門・・・5両5人扶持。御用部屋物書。西軍三春入城の明治元年7月26日二本松にあり、東軍に捕えられ斬。 |
美正貫一郎頌徳碑 | 土佐藩。 天保15年(1844年)、医師下村惇斎の次男として生まれる。 23歳で高知城下南奉行町の徒士格美正家を継いだ。 戊辰戦争では迅衝隊一番司令として出征。 3月に甲州に入り浪士掛探索役となったが、江戸到着後、甲州の有志を中心として遊撃隊を組織し、断金隊と称し、隊長となる。 三春城の無血開城に尽力し、彼を慕う有力者から三春滞留を求められたが実現せず、明治元年7月27日、二本松城攻略のため本宮に向かう途中、阿武隈川渡河の際、銃弾に当って戦死。 25歳。 |
美正の腰掛石 | 美正貫一郎が腰掛けたとされる石。 |