深谷市下手計263-7周辺 地図
渋沢平九郎招魂碑 | 彰義隊。 平八郎とも。 武蔵榛沢郡下手計村名主保高の五男。 尾高惇忠の実弟。 養父渋沢成一郎に従い振武軍中軍組頭。 明治元年5月22日武蔵飯能に敗れ、23日同国入間郡黒山村で自殺。 22歳。 |
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尾高惇忠墓 | 天保元年(1830年)7月27日武蔵榛沢郡下手計村に生まれる。 渋沢栄一の義兄であり、尾高塾を開き、栄一に論語を教えた学問の師である。 水戸学を信奉し、早くから尊皇攘夷論を主張した。 文久3年(1863年)欧米列強の高圧的な開国要求と幕府の弱腰外交に悲憤し、横浜を焼き討つ計画を立てたが、断念。 慶応3年(1867年)将軍慶喜から信任の厚い渋沢栄一の師として招聘されたが、鳥羽伏見の敗戦によりやむなく帰郷し、将軍の汚名を雪ごうと、彰義隊に加わるが、隊内の確執から分裂し振武隊を結成したが武州飯能で敗れ武蔵上野二州の間に潜伏し、しばらくして郷里に戻った。 維新後は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを努めた。 明治34年(1901年)1月2日没。 享年72歳。 |
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