長興寺

   

長岡市稽古町1636  地図

堀口良次右衛門墓 長岡藩。
銃卒。
明治元年6月22日越後福島村で戦死。
酒井貞蔵墓 長岡藩。
号晦堂。
江戸に学び藩校崇徳館教授。
明治元年恭順を主張して容れられず。
決然参軍し、7月29日越後片田村で戦死。
40歳。
山本帯刀墓 長岡藩。
1300石。
執政。
号竹塘。
明治元年大隊長として戦。
9月8日会津飯寺で捕、斬。
24歳。
稲垣平助墓 長岡藩。
門閥家老で2000石の家柄であったが、河井継之助が藩政改革を断行して門閥の平均化のため500石に減知された上に、兵学所頭取に棚上げされて事実上、藩政から外された。
戊辰戦争では恭順を説くが、発言力が低下しており果たせず、自ら屋敷に火を放ち長岡を脱出し江戸の西軍に出頭し、藩主の助命嘆願をする。
戦後は様々な誹謗中傷の中で余生を過ごした。
廃藩置県後は桑畑の開墾、育成に精を出し、また旅籠の経営にも手を出したが士族の商法でたちまち破産。
没年不詳。
なお、六女杉本鉞子は結婚のため24歳で渡米。
米国において日本文化の紹介者として著名であり、日本人として初めてコロンビア大学の講師となった。
主著に『武士の娘』がある。