興国寺

   

長岡市千手2丁目3-43  地図

小林虎三郎墓 長岡藩。
文政11年(1828年)小林又兵衛の三男として生まれる。
幼少の頃、疱瘡により左目を失明する。
23歳の時に藩命で江戸に遊学、佐久間象山の門下に入り吉田松陰とともに「象門の二虎」と称せられた。
戊辰戦争では徳川慶喜の赦免を訴える嘆願書を起草するが、江戸より帰藩した河井継之助が嘆願の無意味を主張して取り消させたため、嘆願書は提出されなかった。
明治元年に長岡藩大参事となる。
戦後、四郎丸村にある昌福寺の本堂を借り、仮校舎として国漢学校を開校させた。
その後、支藩の三根山藩から米百俵が寄贈され、藩士らは分配を望んだが「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と唱え、米百俵の売却益を元手に、学校に必要な書籍、器具の購入にあて、明治3年(1870年)6月15日に国漢学校の新校舎が開校した。
明治10年(1877年)8月24日没。
享年50歳。