全昌寺

   

大垣市船町2丁目21  地図

六十二士墓 大垣藩戦死者の供養碑。
藩士の夫人達により明治元年に建立された。
堤 文之丞墓 大垣藩。
二番兼用隊伍長。
明治元年1月5日山城鳥羽堤で戦死。
21歳。
川喜多総介墓 大垣藩。
総助とも。
有待兵銃隊差図役。
明治元年6月15日越後桂沢で戦死。
29歳。

墓碑には27歳とある。
九鬼円之助墓 大垣藩。
銃隊。
明治元年8月25日若松で戦死。
17歳。
小原鉄心墓 大垣藩。
文化14年(1817年)生まれ。
34歳で戸田氏正に抜擢され、嘉永3年(1850年)藩政改革に着手、大いに功績をあげた。
安政3年(1856年)に軍制改革を実行。
明治元年1月3日に新政府の参与に任じられたが鳥羽伏見の戦いが起こり、養子の兵部率いる藩兵が新政府軍と交戦するに至った。
鉄心は大垣に帰藩して藩論を勤皇に統一し朝廷に謝罪した。
維新後は、大垣藩大参事となり、明治4年(1871年)に本保県知事に任じられたが赴任しなかった。
明治5年(1872年)4月15日病没。
享年56歳。
贈正五位。
市村鉄之助墓 新選組。
安政元年(1854年)大垣藩士・市村半右衛門の三男として生まれる。
安政5年(1859年)に父が藩より追放され、近江国友村で育つ。
慶応3年(1867年)の新選組の隊士募集で兄の辰之助と共に14歳で入隊し、土方歳三附属を命じられた。
鳥羽伏見の戦いの敗戦後、江戸へ撤退するとこれに従い、その後は甲陽鎮撫隊として、甲斐で西軍と戦うが大敗し再度江戸へ退く。
その後は会津、仙台へと転戦し蝦夷地へ至る。
明治2年(1869年)5月頃、土方の命で遺品を託され箱館から脱出し、西軍の包囲を掻い潜り、土方の親戚・佐藤彦五郎家に到着した。
鉄之助は約2年ほど佐藤家に滞在し、後に実家に帰って兄と再会したが、明治6年(1873年)に大垣で病死した。
一説には西南戦争で西郷軍につき、戦死したとも伝えられている。