大窪山墓地

   

会津若松市門田町大字黒岩字塩硝蔵下乙周辺  地図

会津藩3名墓 黒河内只四郎・・・諸生組佐川隊。明治元年1月3日伏見で戦死。22歳。
黒河内清次郎・・・10石3人扶持。明治元年9月14日若松米代二之丁で戦死。28歳。
野村新平・・・200石。朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭。明治元年9月24日会津大芦村で戦死。25歳。
会津藩2名墓 荒木留吉・・・久米吉弟。諸生組町田隊。明治元年1月5日八幡橋下(枚方関門とも)で戦死。19歳。
荒木半蔵・・・久米吉叔父。明治元年9月8日(7日とも)会津一ノ堰(飯寺蟻無ノ宮とも)で戦死。41歳。
飯沼友次郎墓 会津藩。
時衛弟。
別撰組佐川隊。
明治元年1月5日淀で戦死。
26歳。
西郷常四郎墓 会津藩。
常之進の三弟。
諸生組佐川隊。
明治元年1月5日淀で戦死。
22歳。
山室鉄三郎墓 会津藩。
別撰組佐川隊。
明治元年1月5日鳥羽で戦死。
28歳。
高橋伴治墓 会津藩。
明治元年4月19日戦死。

幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
浮州七郎墓 会津藩。
大鳥圭介軍参謀。
明治元年閏4月21日下野今市で戦死。
31歳。
笹沼金六墓 会津藩。
遊撃遠山隊差図役。
明治元年閏4月25日磐城白河で戦死。
32歳。
中野半三郎遥拝碑 会津藩。
遊撃遠山隊小隊頭(差図役か)。
明治元年閏4月25日磐城白河で戦死。
25歳。
赤羽衛門墓 会津藩。
250石。
朱雀寄合一番隊一柳隊小隊頭。
明治元年5月1日磐城白河で戦死。
29歳。
会津藩2名墓 斎藤八三郎・・・八郎伜。朱雀寄合一番一柳隊。明治元年5月1日磐城白河で戦死。19歳。
斎藤八郎・・・13石3人扶持。目付席。進撃小室隊。明治元年8月29日若松長命寺で傷、9月1日城内で死。53歳。
志賀勘兵衛墓 会津藩。
100石。
青龍士中一番鈴木隊。
明治元年5月1日磐城白河で戦死。
48歳。
高橋栄次郎墓 会津藩。
兵粮方
明治元年5月1日磐城白河で戦死。
30歳。
横山主税墓 会津藩。
江戸詰家老横山主税常徳長男。
若年寄。
1300石。
白河口総督西郷頼母のもとで副総督の任にあったが5月1日、白河城外稲荷山で全軍を指揮中壮烈な戦死を遂げた。22歳。
激戦はなおも続き、主税の遺体は収容することができず従者板倉和泉がかろうじて首を掻っ切って退却したという。
会津藩2名墓 小川求馬・・・朱雀士中四番佐川隊。明治元年5月3日越後片貝で戦死。23歳。
小川勝之進・・・10石3人扶持。歩兵差図役。明治元年8月26日若松野際口で戦死。45歳。
山寺 貢墓 会津藩。
100石。
目付。
明治元年6月12日磐城白河古天神で戦死。
31歳。

墓碑には山田 貢とある。
会津藩3名墓 多賀谷勝之進・・・450石。朱雀士中四番佐川隊小隊頭。明治元年6月24日越後福井で戦死。20歳。
多賀谷勝左衛門・・・勝右衛門とも。勝之進の祖父。隠居組。明治元年8月23日若松甲賀町口井上邸前で死。71歳。
多賀谷勝次郎・・・勝之進伯父。大砲士中一番小原隊嚮導。明治元年8月23日若松城三ノ丸(天寧寺町口とも)で戦死。44歳。
多賀谷キイ・・・勝之進叔母。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で自害。
多賀谷五七郎・・・勝之進弟。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で死。7歳。
多賀谷シゲ・・・勝之進の母。明治元年8月23日若松本二之丁の自邸で自害。
多賀谷マキ・・・勝之進祖母。明治元年8月23日若松本二之丁の自邸で自害。
多賀谷政五郎・・・勝之進弟。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で死。12歳。
多賀谷ヤス・・・勝之進叔母。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で自害。
多賀谷リセ・・・勝之進叔母。明治元年8月23日若松本二之丁の自宅で自害。
慶応戊辰戦死之墓
坂本宇兵衛墓 会津藩。
550石。
大砲二番小隊頭。
明治元年5月26日磐城白河金勝寺山で傷、7月9日死。
27歳。

室町幕府将軍・足利氏の末裔である。
斎藤清次郎墓 会津藩。
朱雀足軽二番桜井隊。
明治元年7月29日岩代二本松で戦死。
杉浦小膳墓 会津藩。
丈右衛門伜。
大砲二番高橋隊。
明治元年6月26日磐城白河で傷、7月29日若松で死。
18歳。
伊藤光隆墓 会津藩。
明治元年8月23日会津戸ノ口原で戦死。
20歳。

幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
井深茂太郎墓 会津藩。
白虎士中二番日向隊。
明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。
16歳。
上崎且馬墓 会津藩。
100石。
桑名藩付軍目付。
明治元年8月23日若松蚕養口で戦死。
52歳。
会津藩5名墓 河原岩次郎・・・善左衛門の弟。明治元年8月23日会津滝沢村で戦死。39歳。
河原勝太郎・・・善左衛門伜。明治元年8月23日会津滝沢村で戦死。15歳。
河原キク・・・善左衛門の母。明治元年8月23日会津石塚観音で自害。68歳。
河原クニ・・・善左衛門の娘。明治元年8月23日会津石塚観音で祖母と死す。9歳。
河原善左衛門・・・130石。京都で学校奉行副官兼別撰隊副長、のち公事奉行、帰国して国産奉行。明治元年8月23日会津滝沢で長男勝太郎とともに戦死。43歳。
木本蔵登墓 会津藩。
内蔵丞の父。
明治元年8月23日若松城下で傷、御山(10月青木とも)で死。
77歳。
小松忠之進墓 会津藩。
100石。
玄武隊。
明治元年8月23日若松天神口で戦死。
53歳。
高橋清左衛門墓 会津藩。
隠居組。
明治元年8月23日若松城南郭門口で戦死(南町の自宅で自刃とも)。
72歳。
野矢与八墓 会津藩。
100石。
宝蔵院流槍術師範。
また和歌に長じ、和学所師範。
号涼斎。
明治元年8月23日若松桂林寺町で奮戦、死す。
67歳。
橋爪家墓 会津藩士橋爪家の合葬墓。
橋爪家の由来から戦死した橋爪清助、又六のことについて刻まれている。
橋爪清助墓 会津藩。
80石。
青龍士中三番木本隊。
明治元年6月11日(5日とも)越後福井で傷、8月23日若松城で死。
44歳。
橋爪又六墓 会津藩。
清助弟。
10石3人扶持。
大砲一番小原隊嚮導。
明治元年8月23日若松天寧寺町口で戦死。
36歳。
牧原奇平墓 会津藩。
150石。
郡奉行。
明治元年8月23日会津強清水で戦死。
62歳。
森山八郎墓 会津藩。
13石2人扶持。
一ノ寄合。
徒目付。
進撃小室隊。
明治元年8月23日若松天神口で戦死。
30歳。
横山数馬墓 会津藩。
130石。
軍事奉行添役。
明治元年8月23日若松甲賀町通(会津戸ノ口原とも)で戦死。
41歳。
和田伝蔵墓 会津藩。
250石。
幌役。
供番頭打込。
進撃小室隊組頭。
明治元年8月23日若松天神口で戦死。
40歳。
会津藩3名墓 和田コマ・・・甚吾の娘。明治元年8月23日自宅で母に刺殺される。3歳。
和田ナカ・・・甚吾の妻。明治元年8月23日自宅で自害。20歳。
和田ミワ・・・甚吾の継母。明治元年8月23日自宅で自刃。41歳。
中野勝江墓 会津藩。
克江とも。
100石。
大砲士中二番千葉隊。
明治元年8月24日若松本一ノ丁(城中とも)で戦死。
26歳。
神保巌之助、中野竹子水子菩提 中野竹子・・・書、歌、薙刀に長ず。号小竹。明治元年8月25日若松柳橋で奮戦して死。22歳。
神保巌之助・・・内蔵助三男。明治3年(1870年)に豊後豊津藩に郡 長正らと藩費留学。翌年5月1日に郡 長正が切腹する際には介錯を務めた。その後、帰藩すると山川大蔵や永岡久茂等から「何故一緒に腹を切ってこないのか」と叱責を受ける。大正14年(1925年)5月21日没。享年73歳。
鈴木義衛墓 会津藩。
13石2人扶持。
独礼。
徒目付。
明治元年8月27日(24日とも)若松城で戦死。
31歳。
鈴木良之進墓 会津藩。
6石5斗2人扶持。
郡役人。
明治元年8月28日会津車峠で戦死。
34歳。
常盤数馬墓 会津藩。
150石。
青龍足軽三番日向隊小隊頭。
明治元年8月28日若松長命寺で戦死。
37歳。

墓碑には35歳とある。
杉浦丈右衛門墓 会津藩。
400石。
表用人。
正奇隊中隊頭。
明治元年8月29日若松長命寺で傷、城内で死。
46歳。
高津豊太郎墓 会津藩。
朱雀士中三番原田隊。
明治元年8月29日若松融通寺町で戦死。
19歳。
竹崎郷助墓 会津藩。
100石。
用所密事。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。
51歳。
名越藤次郎墓 会津藩。
8石3人扶持。
別撰春日隊。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。
65歳。
中村志記墓 会津藩。
13石3人扶持。
玄武士中伊与田隊。
明治元年9月3日若松気多宮で戦死。
54歳。
小出とみ墓 会津藩。
彦右衛門の妻。
明治元年9月14日若松城内時計の間で被弾、死。
53歳。
西郷常之進墓 会津藩。
200石。
青龍士中一番有賀隊半隊頭。
明治元年9月14日若松諏訪社で戦死。
45歳。
向山利信墓 会津藩。
明治元年9月24日戦死。

幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。
下條郷助墓 会津藩。
100石。
隠居組。
明治元年9月若松城内で傷、10月8日御山で死。
69歳。
片桐八十次郎墓 会津藩。
10石3人扶持。
奏者番席上席。
遊撃隊組頭。
明治元年9月若松融通寺町で傷、10月10日御山で死。
30歳。
服部 栄墓 会津藩。
22石4人扶持。
別撰春日隊組頭。
明治元年8月29日若松長命寺裏で傷、明治2年7月井手村で死。
26歳。
重松総次郎墓 伊予松山藩。
明治元年6月17日戦死。

幕末維新全殉難者名鑑に記載なし。

     ◆会津藩大窪山に眠る藩士達(14)◆ 松平修理・重松信俊
飯河光義墓 会津藩。
元治元年(1864年)の蛤御門の変では二番槍の功をもって禄100石を給わり外様組付を仰せ付けられた。
明治9年(1876年)思案橋事件の一味であった旧友の中根米七を自邸に匿ったが、結局は米七も逃れえぬことを観念し、明治11年(1878年)8月熊倉村(喜多方市)の光明寺墓地内に入って自決した。
明治15年(1882年)旧藩士中條辰頼らと力を合せて私学校を創立し旧藩校の名に因んで日新館と称した。
光義はここで教授となり子弟の教育に専念した。
明治17年(1884年)10月21日没。
享年60歳。
飯沼時衛、文子墓 飯沼時衛・・・貞吉父。450石。青龍寄合一番隊中隊頭。明治36年(1903年)2月13日没。
飯沼文子・・・貞吉母。西郷十郎右衛門三女。号玉章。明治30年(1897年)8月17日没。
飯沼源八墓 会津藩。
時衛長男。
朱雀士中四番隊。
明治31年(1898年)10月11日没。