大田原城跡

   

大田原市城山2丁目3925  地図

大田原城跡 明治元年5月2日、板室の敗戦で反撃の機会を狙っていた東軍は、援軍も得て大田原に進撃した。
これに対して大田原藩は、西軍とともに芦野や白河口に詰めていたため、手薄な兵力で自衛せざるをえなかった。
その数は100名に満たぬ戦力で、対する東軍は1000名であった。
東軍は二手に分かれて進撃し、秋月登之助率いる主力隊は横林・接骨木・富山と進軍、原田主馬之助率いる迂回隊は関谷・石上・薄葉を経て南方から大田原に向かった。
午後2時頃、主力隊は大田原藩兵の守る石林の胸壁を突破し、二陣として経塚に配備された守兵を簡単に突破し城下に突入し、外郭にある侍屋敷に火を放った。
南からの迂回隊も新田口に進軍し、下町・中町に放火しながら大手門に迫った。
こうして戦局は大田原城の攻防に移り、落城寸前までいったが、折からの豪雨の中、両軍互いに退却という結果となった。
坂下門跡 本城内の本丸・二の丸を北曲輪に通じる門である。
門を入った左手に番所があった。
戊辰戦争には、この門外で会津藩兵と激戦が展開されたところでもある。
大手門跡 大田原城の表門で升形を有していた。
町人地より郭内武家地侍屋敷に通じる出入口は、大久保門・大手門・菖蒲沢門の三箇所で、その一箇所である。
城郭正面である大手に設けた門でその呼称がある。
戦闘時は敵の侵入を阻止し、日常は出入するところである。
戊辰戦争には、この門外で会津藩兵と激戦が展開されたところでもある。