慈眼寺

   

小千谷市平成2丁目3-35  地図

岩村河井会見記念碑 明治元年5月2日、長岡藩総督・河井継之助と土佐藩軍監・岩村精一郎の和平交渉が行われた。
河井は、東軍・西軍のどちらにも属さない中立の立場ながら、藩論は分かれ、しかも会津藩兵などが城下に迫っているため、新政府からの出兵・献金命令に応じることができなかったことや、猶予をもらえれば、藩論を統一し、会津藩などを説得して、平和裏に収めることなどを、嘆願書にまとめ、長岡藩が調停役になることを嘆願する。
しかし、岩村は西軍に恭順するか否かの二者択一を強い、嘆願書の受け取りを拒絶しわずか30分程で交渉は決裂し、長岡藩は西軍と開戦することとなる。
のちに岩村は「河井を、今まで相手にしていた信州諸藩の馬鹿家老と同列と思い、嘆願の相手をしなかった」と語っている。
当時23歳であった岩村に、河井の話をまともに聞く度量がなかったと言われている一方で、河井は最初から西軍と戦う意思があり、小千谷会談は西軍への敵愾心を高めるための儀式に過ぎないとも言われている。
この碑は、昭和14年(1939年)に建立された。