会津若松市門田町大字面川字舘堀64 地図
大竹主計墓 | 会津藩。 450石。 軍事奉行番頭対席。 遊撃隊頭。 明治元年9月5日会津面川(御山とも)で戦死。 46歳。 |
大竹主計、原 早太供養塔 | |
武川信臣墓 | 会津藩。 家老内藤可隠の三男。 明治元年彰義隊信意隊長。 敗戦後西軍に捕えられ、9月9日伝馬町獄で斬(10月9日江戸で自刃とも)。 24歳(21歳とも)。 |
上田氏家属墓 | 上田伊閑・・・八郎右衛門の父。明治元年9月17日若松泰雲寺で子女と自刃。61歳。 上田ジュン・・・八郎右衛門の妹。明治元年9月17日一家で自刃。30歳。 上田チエ・・・八郎右衛門の娘。明治元年9月17日一家で死。9歳。 上田ナオ・・・シゲとも。八郎右衛門の母、伊閑の妻。。明治元年9月17日夫らとともに自害。58歳。 上田ミネ・・・八郎右衛門の叔母。伊閑の妹。明治元年9月17日伊閑らとともに自刃。56歳。 |
内藤氏家属墓 | 内藤可隠・・・介右衛門の父。隠居。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で子女8人とともに自刃。67歳。 内藤ジュウ・・・介右衛門の姪。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で自害。23歳。 内藤セイ・・・介右衛門の伯母。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で自害。 内藤ツグ・・・介右衛門の妹。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で自害。17歳。 内藤トク・・・介右衛門の妹。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で自害。19歳。 内藤ヒデ・・・介右衛門の娘。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で死。6歳。 内藤英馬・・・介右衛門の伜。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で死。3歳。 内藤フサ・・ひさとも。介右衛門の妻。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で自害。23歳。 内藤モト・・・つやとも。可隠の妻。明治元年9月17日会津面川泰雲寺で自害。58歳。 |
内藤氏家臣墓 | 阿部重次郎・・・安部とも。家老内藤介右衛門譜代家来。明治元年9月17日介右衛門の父内藤可隠と子女が若松泰雲寺で自決したときこれに殉じた。30歳。 石野八四郎・・・家老内藤介右衛門家来。明治元年9月17日若松泰雲寺で主家に殉じ自刃。31歳。 古川重兵衛・・・内藤介右衛門家来。明治元年9月17日若松泰雲寺で主家一族と自刃。47歳。 元木吉之助・・・喜代之助とも。6石2人扶持。家老内藤介右衛門家来。明治元年9月17日若松泰雲寺で自刃。35歳。 |
元木吉之助墓 | 会津藩。 喜代之助とも。 6石2人扶持。 家老内藤介右衛門家来。 明治元年9月17日若松泰雲寺で自刃。 35歳。 |
原 早太墓 | 会津藩。 360石。 朱雀寄合一番隊中隊頭。 明治元年9月15日会津一ノ堰で傷、26日面川で死。 37歳。 |
梶原平馬供養墓 | 会津藩。 家老内藤信頼の次男として生まれ、のちに梶原家の養子となる。 文久2年(1862年)藩主松平容保が京都守護職として上洛するや、平馬はつねに側近として随従した。 慶応2年(1866年)家老となり、国事に奔走していたが、鳥羽・伏見の敗戦により容保らが会津に帰国した後は江戸に残留し、エドワード・スネルから小銃800挺、ならびに武器弾薬を買い付けて新潟港に回航した。 また奥羽越列藩同盟の結成に各藩の家老が仙台藩領白石に集合した際はその陰にあって奔走し、籠城中は城内にあって内政を担当した。 その後平馬は米沢藩を介して降伏の交渉を行い、開城式では西軍の軍監中村半次郎に諸藩老連署の書状を手渡した。 明治3年(1870年)に斗南に移住し、廃藩置県後は青森県庁の庶務課長を務めたこともあったが、その直後に平馬は姿を消し、その後の消息は不明である。 没年不詳。 近年、北海道根室市に墓があることが判明した。 ※平成28年10月時点で供養墓は現存せず。 |
梶原平馬供養塔 | |
内藤得道墓 | 越後の出身。 12歳のときに会津材木町の渋川家の養子になる。 その後、善龍寺で修行し、雲水となって修行の旅に出る。 そして会津藩軍事方の命を受け僧籍のまま密偵となる。 戦争が城下戦に移ると得道は兄が住職を務める泰雲寺に身を寄せる。 そして9月17日、内藤一族の自刃の様子を見届けた得道はその遺品や遺言を介右衛門のもとへ届けた。 得道はまた、兄弟子得英らとともに灰燼の中から内藤家の者達の遺骨を拾い集め、ねんごろに埋葬した。 のちに、謹慎を解かれた介右衛門が泰雲を訪れた際に、得道の労をねぎらい無禄の分家として内藤姓を与えたのである。 |