龍昌院

   

横手市城西町4-8  地図

石川隼人墓 秋田藩。
早人とも。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
36歳。
伊藤忠蔵墓 秋田藩。
小鷹狩源太組。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
28歳。
大関嘉右衛門墓 秋田藩。
戸村大学勢。
歩行士。
明治元年8月11日(15日とも)羽後横手で戦死。
39歳。
小田部善右衛門墓 秋田藩。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
41歳。
加藤三郎兵衛墓 秋田藩。
戸村大学家人。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
25歳。
河野九左衛門墓 秋田藩。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
49歳。
佐川藤兵衛墓 秋田藩。
小鷹狩源太組下。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
49歳。
佐々木万五郎墓 秋田藩。
戸村大学家人。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
25歳。
妹尾馬之助墓 秋田藩。
士分。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
47歳。
妹尾五郎兵衛墓 秋田藩。
士分。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
33歳。
妹尾伝蔵墓 秋田藩。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
15歳。
高垣勘右衛門墓 秋田藩。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
50歳。
戸巻永治墓 秋田藩。
戸村大学家人。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
66歳。
沼田宇源太墓 秋田藩。
藩校教授。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
31歳。
沼田瀬兵衛墓 秋田藩。
取次役。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
56歳。
前沢主殿墓 秋田藩。
取次役。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
38歳。
松野小内蔵墓 秋田藩。
戸村大学家来。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
42歳。
横山喜四郎墓 秋田藩。
教授見習。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
28歳。
横山清右衛門墓 秋田藩。
旗奉行。
喜四郎の父、隠居。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
53歳。
吉沢宇市墓 秋田藩。
銃士。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
18歳。
渡部金治墓 秋田藩。
戸村大学家従。
明治元年8月11日羽後横手で戦死。
26歳。
石井乕三郎墓 佐賀藩。
虎三郎とも。
士分。
明治元年8月1日羽後今泉岩崎川で戦死。
28歳。
戸村十太夫墓 秋田藩。
家老。
5500石余。
戸村家は代々横手城代を務めて文政11年(1828年)にその職を継ぐ。
文久3年(1863年)家老筆頭となり、その年朝廷から藩主に上洛の命があり、名代として京にのぼったが、途中で八月十八日の政変が発生し、手兵50余名を指揮して禁裡警衛に当たる。
滞京中に関東で天狗党の挙兵、京都では禁門の変が発生し、勤王運動に対する嫌悪感と不信感を抱く。
戊辰戦争では白石会議に出席し、列藩同盟の調印に加わるが、秋田藩の脱盟すると、独断専行の理由をもって生涯蟄居に処される。
これは藩主の真意に出たものではなく、藩論変転と奥羽鎮撫使への配慮からやむなくとった政治的処分であったため、藩主佐竹義堯は九条総督に再三の赦免を請い名誉回復をはかったが、いずれもその機を逸した。
明治13年(1880年)6月19日没。
享年63歳。
戸村大学墓 秋田藩。
嘉永2年(1849年)5月生まれ。
十太夫の長男。
家老として本藩詰めとなった父に代わって横手城代となり、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府と本藩の退却命令に背き300余の兵をもって、10倍に勝る庄内・仙台連合軍相手に籠城戦を敢行するが、わずか2時間ばかりの戦闘で落城したが、その戦いぶりに庄内藩軍は深く感銘し、松平甚三郎、酒井吉之丞による戦死者の盛大な法要が行われた。
落城後は、仙北郡各地を転戦中に健康を害して久保田城下で療養していたが、父十太夫が佐幕派の領袖と目される人物だったため、奥羽鎮撫総督府や藩勤王派によって差別的な扱いを受けることがあったという。
明治13年(1880年)秋田女子師範学校副校長心得。
明治17年(1884年)河辺、鹿角、平鹿の各郡長を務める。
明治39年(1906年)3月26日横手町長在任中に没す。
享年58歳。