酒屋陣屋跡

   

新潟市江南区酒屋町821-9周辺  地図

会津藩酒屋陣屋碑 元治元年(1864年)、会津藩主松平容保は京都守護職に再任され、5万石の加増になった。
その要望により、翌年酒屋村は会津藩領となり慶応3年(1867年)水原にあった陣屋を酒屋に移すこととし、庄屋宅を仮の役宅として、政務を執った。
慶応4年2月2日酒屋に会津、長岡、 村松、新発田、村上の5つの藩の代表が集まり、会談が行われた。
これは先に開かれた新潟会談と共に新潟町を中心とする経済、軍事の拠点を 会津藩の下に位置づけ、奥羽越列藩同盟の伏線となったもので、世に「酒屋会談」 と言われるものである。
会津藩は酒屋陣屋へ新潟町と同数の300人の兵を出し、西軍に対する敵対行動を始めたが、6月に撤退した。
7月25日、西軍は太夫浜に上陸し、新潟を攻撃した。
8月2日朝、酒屋陣屋は俵柳村(曽野木)出身の小林政司が近郷の有志178人を集めて組織した金革隊によって攻撃され炎上し会津兵は戦わずして新津に退却した。