仙台市青葉区北山1丁目14-1 地図
大塚壮左衛門墓 | 仙台藩。 銃士。 明治元年5月1日白河で戦死。 |
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今村鷲之助墓 | 仙台藩。 参謀。 幼少より父に従い武事と甲越諸家の兵学を学びその奥義を極める。 慶応2年(1866年)武頭として江戸に祇役し、帰藩して目付使番・軍政係を兼ねる。 明治元年、会津征討戦では参謀に上げられ、4月7日土湯口攻撃の指揮を執った。 閏4月20日、世良修蔵の首を、白石本営で今村が受取り奉行但木土佐に届け、但木に罪人なので川なりと捨て置けと言い渡されたが、かりにも総督府の参謀であり、真田喜平太と相談して真田家の菩提寺である月心院に埋葬することにした。 白河口の戦いでは副参謀として参戦し、参謀坂本大炊が敵弾に倒れ、銃弾飛び交う中を従者と共に遺体を担ぎ山麓に運び込んだ。その後の指揮を任された今村は戦線に駆け戻って兵を励まし奮戦した。 7月10日、仙台藩大隊長梁川播磨が秋田藩境の金山で大敗し、これを受けた仙台藩庁は岩出山伊達隊と佐沼亘理隊を庄内藩応援として増派し、さらに白河口で戦闘中の今村は、15日に6小隊と大砲2門とする軍勢を率い急遽秋田戦線に向かった。 及位で庄内・山形・上山藩兵と会し、三方より進んで院内に入った。 庄内藩と共に秋田領内を進撃したが、9月19日停戦の連絡を受け、佐沼隊らと仙台へ向かった。 明治3年(1870年)に国事編纂係となり、次いで宮城県区長に任ぜられ、明治9年(1876年)には学区取締役となったが、12月に没した。 享年50歳。 太平洋戦争で軍政・指導能力高く名将と評価された今村 均は孫にあたる。 |
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飯沼貞雄墓 | 会津藩。 旧名貞吉。 戊辰戦争では生年を偽って白虎士中二番隊に参加。 飯盛山では咽喉を突いたが急所を外してしまい人事不省のまま死にきれずにいたが、印出新蔵の妻はつに連れられて塩川村の三本住庵という町医者に傷口を縫って薬をつけてもらい、落城までの期間、入田付村山中の不動堂に隠れ住んだ。 戦後、他の藩士達と共に謹慎し、赦免後に名を貞雄と改めて静岡の林 三郎塾に入り、明治5年(1872年)に工部省の技術教場に入所して電信建築技師となった。 日清戦争には歩兵大尉として出征し、帰還後は逓信省に戻り、仙台逓信管理局の初代公務部長を務めた。 昭和6年(1931年)2月12日没。 享年77歳。 |
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あずさ弓歌碑 | 飯沼貞吉の母ふみ(雅号玉章)が貞吉の出陣に際して詠んだ和歌が刻まれている。 あずさゆみ 向かふ矢先はしげくとも ひきなかへしそ 武士の道 平成25年(2013年)9月建立。 |
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