館城跡

   

厚沢部町字城丘397  地図

館城跡 明治元年7月に松前藩内で起こった正義隊のクーデターにより尊皇派に転じた後、旧幕府軍の攻撃に備えて、内陸部に新城を建設することとし、9月1日に工事に着手し、10月末には一応の完成を見た。
城とは言え、壕をめぐらして柵を建てただけの陣屋のようなものであった。
箱館戦争が始まると、東軍の松前城攻撃に先立ち、藩主一族は11月3日に館城に移動し、5日の松前城落城後も、圧前藩は降伏せず、館城・江差を拠点に態勢を立て直す姿勢を見せたため、11月10日に松岡四郎次郎率いる一聯隊200名が館城攻略のため、五稜郭を出発、13日に途中の稲倉石を抜き、15日には館城攻防戦が行われた。
藩主一族は12日に江差に避難しており館城守備隊は60名程度であった。
午前9時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した東軍兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となった。
まな板を盾にしつつ太刀で戦い壮絶な戦死を遂げた松前法華寺の元僧侶である軍事方・三上超順の奮戦もあったが、昼頃には落城し、松前兵は敗走した。
館城には松前城から運んだ什器・宝物類があったが、東軍は後日、人に託して松前藩へ返却している。
館城を占領した松岡四郎次郎は、戦略上の価値はないと判断して城を焼き払い、江差へ進軍していった。
三上超順力試之石 相撲好きの田舎力士、山田某が館城内の役所跡を通る旧道沿いでこの石を見つけ、自宅に持ち帰り、毎日力試しをしていたところ、妻が病気になってしまった。
ある人から拾った石は三上超順の力試しの石だから元に戻したほうがよいと言われたため、正定寺の住職に回向を願ったところ、妻は元気を取り戻したため、この石は正定寺の境内に長らく安置されていた。
昭和43年(1968年)館城百年の記念として正定寺境内から移された。